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 私もかつては、今でいう「南京事件はあった派」であった。私が平成9年に出版した『日米開戦以降の日本外交の研究』(亜紀書房)193~194頁で次のように述べたところがある。

 計画をこえて多くの日本兵が南京城内に入り、軍規が乱れ婦女子暴行、窃盗などの不祥事が多く起こったことも事実である。司令官松井石根が泣いて怒ったというエピソードがあるぐらいだから相当のものだったようだ。東京の参謀本部から本間雅晴少将が、1938年(昭和13年)2月日本軍の暴行を問題にして南京に出張したというのであるから、日本軍の不祥事件があったことはたしかだ。

 しかし、この記述は、あくまでも平成9年の時点の記述であり、当時はいまだ「日本「南京」学会」が設立されていなかった。“公史”としては、平成元年に財団法人偕行社の『南京戦史』が出ているのみであった。この『南京戦史』は当時定着しかけていた20~30万人の大虐殺を否定することには貢献したものの、南京大虐殺ないし南京虐殺を完全に否定するものではなかった。当時の研究状況を踏まえて、この時点では上記のような記述になったものである。

 その後、平成12年10月28日、「日本「南京」学会」が設立される。この学会の「南京」研究は素晴らしかった。

 「南京事件」を記す原資料を完全にデータ化して、そのことによって20~30万人虐殺はどうしても出てこないことを証明した。当時の南京には相当する記録がないのに、英文文献に4万人の虐殺があったという記述があったが、その執筆者は、国民党に雇われた顧問であったことも判明した。また南京戦後300回にわたって国民党が開いた記者会見で、1度も「南京事件」として非難する文言がなかったことも明らかとなった。また、中国が証拠とする「南京」関係の写真は、1枚の例外もなく、「南京事件」の証拠写真とならないことも判明した。

 そればかりではない。「日本「南京」学会」は、虚構の「南京事件」が、戦後の世界の歴史の中で捏造されていく過程も明らかにした。したがって、「南京事件」は虚構であり、存在しなかったことは完全に証明された。

 「日本「南京」学会」は、平成19年まで活動して、平成20年、学会の紀要たる『南京「事件」研究の最前線(最終完結版)』(展転社 2008年)を出して、実質、活動を閉じた。私は、終始、この学会で理事を務め、この「最終完結版」では、「最終完結版あとがき―日本「南京」学会八年の研究成果を総括して」をまとめた。

 したがって、今日では、「南京事件」は虚構であり、存在しなかったという立場である。

 なお、上記引用文にある司令官松井石根が泣いて怒ったという「涙の訓示」のエピソードは、日本国内で、南京虐殺のあったことを印象づけるものとして影響したが、軍律厳しい日本軍の中で、それでも起こった掠奪、強姦、殺人の事件を憂えてのことであり、それも決して大量のものではなかった。それでもあってはならないことをしたとして泣いて訓示をしたものである。この「涙の訓示」は2月7日上海で派遣軍慰霊祭の際になされたもので、上記の記述はあたかも南京陥落直後に行われたかのように記している。その誤りを指摘したのは、当時、市井の研究者で、「南京」研究で異彩を放ち、平成11年に亡くなった板倉由明氏であった。この人も厳密には、「南京事件は(数少ないけれども)あった」派に属する。

 ところで最後に、「日本「南京」学会」の会長を務め、その後の「南京」
研究の最終決着をつけた亜細亜大学教授東中野修道氏については、その研究業績の功績は、文化功労賞に値することを記して、この稿を終えたい。

新しい歴史教科書をつくる会 会長 杉原誠四郎


  

 世に行はれる言説の多くは「一見まとも、その実無内容・非常識」である。

 まづ無内容の方。「尖閣諸島を東京都が買上げる」と発言した石原都知事に対して、例によつて訳知り顔の社説を並べた大新聞がまさしくこれ。「これは東京都の仕事ではないはず」(朝日)、「都民が都政を委託した知事の仕事ではない」(毎日)、「本来、国の仕事」(日経)…よくもこんな分り切つた形式論を並べ立てられるものだ。この程度なら新聞様が教へてくれなくとも、国民の大多数が知つてゐる。新聞は国民がバカだと思ひ込んでゐることが、これでよく分る。

 国の仕事なのに、その「国」がまるで仕事をやらうとしないから「義を見てせざるは勇なきなり」、都知事が已むに已まれず火中の栗を拾はうと言ふのではないか。正常な日本人なら石原知事を断固として支へ、臆病な政府の尻を叩いて内外にはつきりと「国有化」を宣言させ、本物の「実効支配」を断行させようと考へる。事実、国民の圧倒的多数が石原発言を支持してゐると聞く。知らぬはメディアばかりなり、である。

 次に非常識。野田数都議から鋭く問題点の指摘を受け、最近初めて「マッカーサー証言」を収録するなど一定の改善が見られる東京都立高校用歴史副教材「
江戸から東京へ」であるが、中にこんな記述がある。「
12月には南京を占領したが、このとき日本軍が中国の兵士や非戦闘員を殺害する事件が起こった(南京事件)」(117p)

 これを見てすぐに「変だな」と思はない人は、失礼ながら常識が足りない。日本は当時シナ(国民党政府)と戦争をしてゐたのである。戦争の最中に敵軍の「兵士」を殺すことは「事件」なのか。戦争だから非戦闘員が死ぬこともある。東京大空襲を見よ。広島・長崎を見よ。あれを「大事件」となぜ呼ばぬのか。かういふ教材を書く人も、それを見て不思議に思はない人も、ともに非常識なのである。

里見日本文化学研究所研究員 井上宝護


   

 今春来日した中共南京市委員会の常務委員らに対し、河村名古屋市長が「南京大虐殺といわれる様な事件はなかったのではないか。」と発言し、大きな問題になっているが、本当は「なかったのではないか」ではなく、その様な事件は明確に「なかった」のである。

 この問題は、1946年8月29日の極東国際軍事裁判(東京裁判)の第58回公判当日から続いて66通にのぼる文書が、当時の中華民国首席検察官によって読み上げられ、初めて公にされた。それ迄の約9年間は関係諸国はもとより、世界のどの国においても、伝聞や推測による記述以外は全く取り上げていない。

 1912年に上海で創刊された権威ある英文年鑑「チャイナ・イアブック」の1938年版や1939年版にも、12月13日(日本軍南京を占領、1937年)とあり、12月17日には「日本軍南京入城」とあるが日本軍の南京虐殺という記事はない。しかし3月24日のところを見ると、蒋介石の国民革命軍による「南京強姦事件、1927年」という記録が載っている。これは、日本軍の南京占領より10年前に起きた「南京事件」の事である。

 また南京陷落と同時に入城した(外国人記者5名を含む)新聞、雑誌社等の特派員やカメラマンは約120人もいたが、誰一人として死体の山も血の河も見ていない。当時の朝日新聞は、日本軍の占領下における南京の情景を組写真にして連日報道し、「平和甦る南京」「きのうの敵に温情」「南京復興の足どり」などと、平和そのものの記事を掲載している。

 また欧米人記者たちも同年12月23日と翌年1月10日の2回、松井軍司令官に取材しているが「大虐殺」の記事も報道も非難もなかった。

 なお当時の交戦相手であった国民政府軍や中国共産軍、それに対日非難を続けていた国際連盟理事会の公式声明や文書でも、この問題には全く触れていない。それはつまり、その様な事件は一切なかったという何よりの証明になる。(創作以外)なかったことは書けないからである。

(社)全国教育問題協議会 顧問 梶山 茂


 

「問題とされている2月20日の会談について」

 2月20日(月)午前9時30分、南京市より中国共産党南京市委員会常務委員、南京市副市長劉志偉氏、以下総勢8名の方々が名古屋市役所を訪れ、河村市長と会談をおこなった。なお、本席には、8日に南京市を訪れた私、山本久樹名古屋市議、桜井治幸元名古屋市議の三名も同席した。

 主なやりとりは、以下の通りである。

〔河村市長発言〕

・死んだ父の関係で、南京とは深い縁がある。自分の父は、ちょうど南京で終戦を迎えた。そして、南京市にある棲霞寺にしばらく滞在した。棲霞寺で南京の人々に大変温かいもてなしを受けて、無事帰国した。

・私の父はよく「おまえが生きているのは南京の人々のおかげだ」と言っていた。父はお礼に棲霞寺の裏に桜を1000本植えた。

・いわゆる南京事件と言われるのは昭和12年のできごとだが、もし8年前に南京事件があったとしたら、南京の人がなぜ日本の軍隊に優しくしてくれたか理解できない。

・南京事件というのはなかったのではないかと。通常の戦闘行為はあった、あって残念だが。 真の日中友好のためには真実を明らかにしないと、トゲが刺さったようなものでうまくいかない。

・一度、南京で討論会を開いてほしい。南京の人に感謝しているので、そういうことを言っている。

 〔劉常務委員の発言〕

・日中国交正常化40周年という記念すべき年に、名古屋を訪問できて光栄である。

・中国には四十にして惑わず、という言葉がある。両国の関係もこのようになると思っている。

・南京市民は平和を愛している。憎しみのためではなく、平和のために歴史を学んでいることを強調したい。

・これまでの34年を大切にして、交流を拡大したい。そうすれば両市民の生活が豊かになる。

 なお、この時の会談の様子は、「UP!- 名古屋テレビ【メ~テレ】、http://www.nagoyatv.com/up/」でご覧頂けます。

 この20日の訪問団の中には、私が8日の日に会った人も複数いたし、前日の歓迎会の席上、名古屋市当局から明日の会談で市長から南京事件についての話しがあるかもしれない、ということも伝えられている。外交関係上も全く問題はないと言わざるを得ないのである。

 基本的に友好的なムードであったし、お互いに自分の意見を押しつけるというものではなかった。

 また、市長の発言も、友好促進のために「ノドのトゲを抜こう」(河村市長)との思いでなされたものであり、にこやかなうちに会談も終了している。

 市長はあくまで、お互いに意見の違いがあるので議論しよう、と言ったに過ぎない。一体なにが問題なのか私にはわからない。

「南京訪問をし、南京市政府と会談をおこなう」

 2月7日から9日かけて南京市を訪問することにし、友好親善を図るとともに、「いわゆる南京事件」について意見交換をしたい旨の訪中であることを事前に名古屋市国際交流課を通じ、南京市政府に伝えておいた。訪中は、私、山本久樹名古屋市議、桜井治幸元名古屋市議の三人である。

 2月7日に先ず、南京市を管轄とする上海の日本総領事館に立ち寄り、中国のこの問題についての雰囲気や日本総領事館の対応などについてお聞きした。

 応対して頂いた首席領事からは以下のような発言があった。

1. 「南京記念館」については、行き過ぎた展示であり、従来以上に30万人が強調されており、諸説ある犠牲者数について色々な意見に耳を傾けるべきだとして、「日本政府の問題意識」として抗議しているとのこと。(記念館が拡張された直後の2008年と現在の総領事が着任した時に二度しているとのこと)

2. 国(中国共産党)の方針で行っているため、南京市政府だけでは対応は難しいのではないか。

3. 反日教育は行われてはいるが、日本の文化などには中国の若者の人気が集まっている。

 2月8日の午前中に、「南京記念館」を見学した。極めて恣意的な展示が多く、また最近の研究で間違いが指摘されている資料がそのまま展示されている、また解説の文も非常に反日を煽る表現となっているなど問題が多い。

 指摘すべきこと、したいこと多数あるが、本文は今回の一連の動きをお伝えすることが目的なので、別の機会にしたいと思う。

 同日午後に、南京市人民政府を訪問した。

 南京市側出席者 

①汪正生氏  南京市人民対外友好協会名誉会長 

 南京市側から3名の方が応対してくれたが、この方が代表という位置ずけで、発言もほとんどなされた。(元南京市議会議長とのこと)

②任叢林氏  南京市人民政府外事弁公室副巡視員

この方は後々述べるが、2/20の訪名団の一員であった。

③曹文堂氏  南京市人民対外友好協会副会長

この方は「南京市人民政府外事弁公室」の肩書きも持つ。

 以上3名の方々が我々との会談に応じて頂いたが、後方に ④ 郎叙氏 (南京市人民政府外事弁公室職員) がおられたし、彼は後述する2月20日の訪名団には通訳として来名されている。

 会談内容

・40~50分間の会談。

 藤沢から受け入れについての謝辞、友好の一層の促進をはかりたい旨の発言とともに、会の冒頭に河村市長の親書を手渡す。南京市長に渡しますとの言あり。

・その後、「南京事件」について言及。

 その柱は、
「30万人はあり得ないのではないか」
「互いに意見の違いはあるが、それを議論したい」
「そうすることが日中、名古屋・南京の友好促進にとって大事だと思う」
「記念館を見た日本人の中には、中国は日中友好と言いながら、こんな展示をするなんてそれは口先だけではないかと思う人もでてくる。それは互いの利益にならないので、行き過ぎた展示については改めてほしい」
「市長の親書にも同じ思いが書かれていると思うし、市長も我々と同じ考えだと思う」

・桜井元市議からは、
「日本だけが悪者になっている。アメリカ等と比べて日本だけ突出した感じになっているのが気になる」

・山本市議からは、その際に発言はなかった。

・中国側は、基本的に①汪正生氏が発言

「今日はようこそ、友好を深めたい」
「日本には何度か行ったことがあり、その際よくして頂いた」
「議論は良いでしょう」(公開についての言及はなかったと思う)
「被害者のためにも記念館は必要」
「この記念館は憎しみや恨みからやっていることではなく、過去を認識し、未来のためにやっていることだ」

通訳は、⑤「孫曼南京市人民政府外事弁公室」がおこなった。

 ムードは決して悪くなかったと思う。最後は、握手・記念品の交換、写真を撮り別れた。
  
 夜は、中国南京市側が歓迎懇親会を開いてくれた。

 その席上は、基本的に南京事件について言及していないが、自然発生的に出た会話として、

 「日本がこのことを言えば言うほど、中国側もムキにならざるを得ない」
「証拠はいくらでもあり、全世界から集める」
「河村市長は、この問題に触れない方が良い」との発言があったが、友好ムードで進んだことは間違いない。

 なお、この夜の懇親会には、昼の会談に参加した②③の人たちも参加していた。(及び④、⑤も参加)

 その他に、⑥「孫家興外事弁公室主任」がリーダーとして、⑦「孫文学南京市人民政府駐日本事務所首席代表」も参加された。

 昼の会談も夜の歓迎会も極めて友好的であった。

 また、昼の会談で、我々の議論をしたいとの提案に対し、「議論すること自体は問題ない」旨の発言に意を強くしたし、その実現に向けて努力していこうと考えもした。

 我々は、8日夜の歓迎会の席上、②任叢林氏と④郎叙氏が2月20日に名古屋市役所を訪れ、河村市長と面談することも知り、名古屋での再会を約束した。(つづく/藤沢忠将)