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五月十八日、興亜観音の平成二十六年例大祭が行われた。五月晴れのもと、相模湾の水面に輝く光を受け、住職はじめ参列者は清々しい気持ちで臨み、およそ三十分にわたり厳かに取りおこなわれた。
興亜観音の建立を発願したのは、南京事件で刑死した松井石根大将である。
松井石根大将は、若いときからアジアの国々は協力していくべきという考えを持ち、昭和八年には大亜細亜協会の設立に尽力していたが、昭和十二年八月、上海派遣軍司令官に任命され、本来なら手を携えるべき中国と戦うことになった。また松井大将は、観音様の熱心な信者で、出陣にあたり観音像を寄進されると、陣中まで持っていった。
このようなことがあって凱旋帰国すると、陣中に持っていった観音様を祀って戦死した将兵の霊を弔おうと思いたった。
その思いに賛同した人々の寄進で熱海の伊豆山に観音堂が建立されることになり、新たな観音像も作られ、昭和十四年冬に落慶、翌年春、開眼式が行われた。
観音堂には、日本の戦死者と並んで中華民国の戦死者の位牌が置かれ、新たな観音像は激戦が行われた上海大場鎮の土を取りよせ作られ、興亜観音と名づけられた。
東京品川から伊豆山の麓に住まいを移した松井大将は、それ以来、毎日、小高い山に登って参拝するのを日課とした。
そのような松井大将の精神からいって南京事件のような不祥事が起こるはずはなく、当然のことながら松井大将が事件があったと知ったのは戦後になってからである。そして言うまでもなく最後まで事件を否定していた。
松井大将は、戦争犯罪容疑者として巣鴨に出頭するまで興亜観音の参拝を続け、出頭するとき伊丹忍礼に堂守りを頼んだ。伊丹忍礼は、観音堂が建立されたとき、松井大将の要請により住職になった僧侶である。
松井大将が死刑の判決を受けたため、伊丹忍礼はそのまま観音堂を守ることとなったが、敗戦の衝撃により参拝者は激減、檀家があるわけでなかったため伊丹家の生活は困窮をきわめた。
それでも松井大将のかつての部下や大アジア主義に共鳴した人たちによる参拝がほそぼそと続き、世が落ち着くと、参拝者は増え、興亜観音を支えるためのさまざまな活動も始まった。例大祭も、今年の参列者は十数名だったが、少ないときでも数十名、多いときは数百名が集まった。
伊丹忍礼は死ぬまで堂守りを続け、忍礼亡きあとは妻の妙眞がかわりを務め、現在は夫妻の三女である妙浄が跡を継いでいる。今年の例大祭も妙浄尼が法要を行った。
観音堂や観音像は建立から七十四年を経ているが、それほどの傷みは見られず、建立された当時を髣髴させている。途切れることなく例大祭が行われてきたことは松井大将がもっとも願っていたことであろう。毎年五月十八日に行われる例大祭には松井大将の志を理解する人なら誰でも参列できる。
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支那事変が始まった昭和十二年夏、東宝映画文化映画部は上海に渡って撮影を行い、記録映画「上海」を製作した。引きつづき「南京」が製作されることとなり、陥落直後から昭和十三年一月にかけ南京で撮影され、四月に公開された。
このうち「上海」はいまでも見ることができるが、「南京」のほうは欠けたものしか見ることができなかった。ところが欠けていた一巻十一分がアメリカにあり、一昨年、「You Tube」で公開された。今年に入り「日本文化チャンネル桜」でそのことが紹介され、欠けていた部分は「電脳 日本の歴史研究会」で手軽に見られるようになった。
「南京」の全容が再び人々の目に触れるようになるまでには紆余曲折がある。
戦後、「南京」が注目されたのは、教科書誤報事件が起きて南京事件が話題となったときである。誤報事件をきっかけに、どのような南京の姿が映しだされているのか、虐殺の片鱗はうかがえるのか、注目されだしたからである。しかし、フィルムは戦災で焼失して、見ることはできなかった。
公開された当時の映画評や撮影に当たった白井茂の話などから、東京裁判のいうような虐殺が記録されているわけでないことは知られていたが、百聞は一見に如かずである。ほかに保存されているのではないかともいわれたが、やはりどこにもなかった。
それから十数年して、八巻からなるフィルムのうち七巻分が中国にあることがわかり、平成七年、ビデオとして日本で発売された。
こうして製作から五十七年ぶりに見られるようになったのだが、そこに映しだされているのは、南京城内の戦闘の跡、十二月十七日に行われた入城式、十八日の慰霊祭などで、実写ではないが中華門を攻撃する様子も再現されていた。また、二十一日に日本軍が新配置されてからは、平民分離と良民証配布、復旧していく難民区、正月の準備を進める日本兵、元日の南京自治委員会の発足などが紹介され、新しい任務のため南京城から行軍していく日本兵の場面で終わっている。
撮影された当時は報道規制があって残酷な場面の撮影は許されなかったが、それを考慮しても、東京裁判や朝日新聞の言う南京とは似つかぬ南京の姿で、フィルムの出現は南京事件が虚構であることを改めて示した。
今回、そこに欠けていた一巻分が明らかになったのだが、その十一分には、南京城と紫禁山が俯瞰的に映しだされ、外交部、軍官学校など城内の主な建物が残り、孫文を祀った中山陵も無傷のままであることが映しだされている。また城壁から城外にかけ、高射砲が配置され、防空壕が掘られ、城内には土嚢が積まれてあくまで中国軍は抗戦するつもりであったことも紹介されている。
これまで知られていたことと変わりなかったのだが、新たな発見もあった。
支那事変が起こると南京でも親日中国人の逮捕処刑が始まるが、ナレーションは「住民を戦慄せしめた漢奸狩りのポスター」「ときには何千人もの死刑が執行されたという」と述べている。
南京は、南京戦が始まる前から、考えられる以上に混乱した街だったことが明らかになった。
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二年前、河村たかし名古屋市長が、南京事件はなかったのではないか、と発言した。
名古屋市を訪れた南京市共産党幹部を前にしてのことで、河村たかし名古屋市長は父親の体験を交えて話し、その場は友好裡だった。
ところがこれに北京が反発した。南京大虐殺に動かぬ証拠があると言い、河村市長は討論会を開きたいとも話していたが、議論は必要ないと切りすてた。
北京だけでない。名古屋市と姉妹都市の関係にあった南京市も歩調を合わせて名古屋市との交流中止を発表、南京市のある江蘇省も職員や国営企業幹部の名古屋市訪問を禁じた。予定されていた南京市での柔道式典などが次々中止となった。
それに対して日本では、河村発言を支持する集会が開かれ、「河村発言を支持し『南京』の真実を究明する国民運動」が結成された。「河村発言を支持し『南京』の真実を究明する国民運動」は名古屋に本社がある「中日新聞」に河村発言を支持する広告を打つことに決め、受けいれられた。ところがいったんは受入れたものの「中日新聞」は拒否、掲載をめぐって訴訟となり、結局、広告は拒否された。
拒否が確定したのは七月で、それをもってこの問題は一段落したが、その後、どうなったのだろうか。
河村市長は、発言の直後から発言を撤回しないと述べていて、その姿勢はいまも変わらない。
動かぬ証拠があると言った中国側は、議論の必要はないと切りすてたまま、やはり討論会を開こうとしない。
柔道式典は中止となったが、そもそも式典は日本から資金を提供して建てられた「日中友好南京柔道館」の二周年を記念して行われる予定のもので、中止したからといって中国が困ることはない。それ以来、いまのところそのような式典は開かれていない。
姉妹都市の関係はいまも続いている。
河村発言以降、姉妹都市にかかわる行事は行われていないが、ここ十年に限れば、特別行事が行われていたわけでなく、これまでと変わりはない。
名古屋市の国際交流課によれば、南京市との最低限の事務連絡は続いているという。
名古屋市にとって特にデメリットはないようだ。
その後も中国は南京事件を否定する日本側の発言にただちに反応する。それなら討論会を開いて日本側の見解を粉砕すればよいのにと思う。
討論会も開けない中国側にマイナスが残ったと言えるのではなかろうか。
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