コンテンツへスキップ

「南京戦の真実を追求する会」が発足した。かつて「日本『南京』学会」という研究団体があり、「南京の真実国民運動」も活動を行っているが、なぜ新しい組織なのか。「南京戦の真実を追求する会」では次のように語っている。

 

日本にとっていま差し迫っている歴史問題は南京事件と慰安婦である。南京事件はユネスコの世界遺産に登録され、アパホテルのボイコットが起きた。さらにカナダに記念碑が建てられようとしている。慰安婦では、慰安婦像が世界各地に建立され、慰安婦を理由に日系の子供がいじめに遭っている。南京事件同様、ユネスコの世界遺産に登録される危険も抱えている。

 

このように二つは似たような問題を抱えているが、決定的に違う点がある。慰安婦は日本政府が否定し、教科書に記述されることはないが、南京事件は日本政府が認め、教科書に記述され、日々生徒に教え込まれているという点である。

 

慰安婦の強制性が否定されたように、南京事件も否定され、学問上の決着は見ている。南京事件は中華民国が行った戦時宣伝であった。誰がどのように宣伝をやったか、すべて明らかになっている。第一次世界大戦で天文学的な賠償が報復として敗戦国に課せられたが、第二次世界大戦では賠償に代わって戦争裁判が持ち出された。それにより架空の南京事件が事実とされただけのことである。

 

学問上の決着を見たからそれでいいというわけにはいかない。今やアメリカの高校の教科書にまで記述されている。これから北米には次々と記念碑が建てられるかもしれない。南京事件はこれまでにないほど世界に広まる可能性がある。このようなことを考えると、南京事件の実相をもっと国民に知ってもらわなければならない。日本政府には認識を新たにしてもらい、考えを改めてもらわねばならない。それが「南京戦の真実を追求する会」の結成された理由であるという。

 

結成にあたり、さっそく第一回講演会が開催される。憲政史家の倉山満氏が「南京の真実を語る――最強の武器、国際法が日本を救う」と題して講演を行う。第二次世界大戦で勝利国は一方的に敗戦国を裁いただけではないのか、戦時国際法から見て南京事件は認定されたことになるのか、こういったこれまでにない視点からの講演が予定されている。第一回にかぎらず「南京戦の真実を追求する会」ではこのような新たな視点での講演会を開催していくと言っている。

 

ちなみに第一回講演会の日時などは次の通りである。

6月29日(木)午後7時開演、9時終演、文京シビックセンター3階、参加費1000円(学生500円)。

熱海にある興亜観音が活気づいている。言うまでもなく興亜観音は東京裁判で南京事件の責任者として処刑された松井石根大将が建立している。

 

松井石根は軍人になると主に中国関係を歩み、青木宣純中将、宇都宮太郎大将の系統を引く中国専門家として知られるようになり、松井の系列を引く軍人には原田熊吉中将や和知鷹二中将たちがいた。また、松井は孫文の説く大アジア主義に共鳴、日本と中国は手を携えていかなければならないという信念の持ち主であった。

 

昭和12年8月に上海派遣軍司令官に就くと上海を平定し、10月には中支那方面軍司令官に就任して南京を攻略した。しかしこの4か月にわたる戦いで日本軍は4万数千人という予想もしない犠牲者を出し、中国軍はそれに数倍する犠牲者を出した。松井大将は武人として戦うのにやぶさかではなかったものの、大アジア主義者としての立場から、日中の兵士の霊をそのままにしてはおけなかった。

 

昭和13年2月に凱旋帰国するが、やがてその思いは兵士が斃れた上海や南京の土を使って観音像を作って回向するという形になった。このとき松井は、兵士たちの犠牲のうえに日中友好が築かれるはずという思いから、観音像を興亜観音と名づけた。

 

こうして大きい露仏の観音像と小さな観音像が作られ、熱海の鳴沢山に祀られることになった。これが興亜観音である。興亜観音を守るため、昭和17年には興亜観音奉賛会が作られ、松井石根が総裁、熱海市長が会長に就いた。

 

しかし、敗戦になると、松井が東京裁判の被告となり、さらには絞首刑となったため、また熱海市は興亜観音に関与することが禁じられたため、興亜観音奉賛会は有名無実となる。

それでも松井大将と関係のあった人たちを中心に弧峯会や興亜観音を守る会などが作られて興亜観音を守ってきた。

 

松井大将と関わりのある人がほとんどなくなった数年前から、興亜観音奉賛会が設立された原点に戻ろうという動きが出てきた。当初、熱海市長が会長を務めていたように興亜観音がある静岡県の人々で守っていこうという動きで、熱海市の人たちを中心に住職の伊丹妙浄尼の法話を聞く会などが開かれはじめた。

 

昨年12月23日には新たに14名の理事が選ばれたが、10名は静岡県の人たちで、そのうちの1人として静岡県選出の渡辺周衆議院議員が選ばれている。

 

また、「怨親平等」をもっと知ってもらおうということも決まった。

 

「怨親平等」は仏教用語で、敵も味方もわけへだてなく回向して成仏を願うという意味で、松井大将は興亜観音縁起のなかで使っている。この言葉は鎌倉の円覚寺でも使われている。北条時宗は元寇で斃れた兵士を敵味方分け隔てなく弔おうと円覚寺を建立したからで、今年になって興亜観音と円覚寺が「怨親平等」をもっと知ってもらうため手を携えることも決まった。

このようなことが続き、ここ10年のあいだ見られないほど興亜観音が活気づいている。

 

1月28日、百人斬り競争で知られる野田毅少尉の遺品が靖国神社遊就館に献納された。軍服、勲章、寄せ書き、刀、軍隊手帳など数十点に及んだ。

 

軍服は、敗戦を迎えたとき着用していたものが中心で、少佐を示す襟章のついた航空兵の軍服や飛行服などである。ほかに航空兵に転科するまえの軍服などもあり、併せると十着ほどになる。勲章は金鵄勲章、旭日章、ビルマ勲章など。寄せ書きは日の丸への寄せ書きがほとんどで、支那事変が始まって北支に出征するときのものや広東攻略戦に向かうときのものなど十点余り。「毅兄へ 祝報國百人斬」と書かれた寄せ書きもある。刀は軍刀拵えと白鞘の二振り。

 

軍服はどれも高価なもので、敗戦直後の食糧事情が厳しいとき物々交換され消えてしまうのが普通だったが、保存されてきた。なかにはクジラのひげで作ったといわれる白い背広もある。野田毅はなかなかのハンサムで、おしゃれでもあったようだ。

 

また、夏用の軍服は、敗戦後も着用していて、昭和22年8月に連行されるとき着ていた。南京で処刑後、同房の日本人が持ち帰ったものである。

 

70年という長い年月が経っても残ったのは実妹のマサさんが丁寧に保管してきたからである。虫干しを欠かさず、防虫剤を入れ、注意を怠らなかった。虚報により処刑され、さらには捕虜斬りとまで貶められ、その兄の気持ちを思うと、残さなければと思ったのだろう。マサさんは86歳という高齢のため保存がおぼつかなくなり、献納することになったのだが「これでホッとしました」と言う。

 

野田少尉の遺品としては、このほか陣中日誌、アルバム、資料なども保管されてきて数十点に及ぶが、これらは防衛省の戦史研究センターに寄贈された。軍事史の研究という観点から遊就館と分けられたのだが、戦史研究センターに寄贈されたものには「ビルマ軍義成訓練 教宣本」「ビルマ独立義勇軍 秘話」「ビルマの太陽」などがあり、日本軍のビルマ独立工作がさらに明らかになるだろう。

 

靖国神社には二振りの刀が献納されたが、敗戦となったとき野田家には四振りがあった。GHQ(占領軍)から提出するよう命令が出されたため、一振りを提出し、三振りが残った。そのうち一振りをもう一人の妹が形見にもらい、野田家を継いだマサさんの手元に二振りが残った。このうち軍刀拵えは戦場に持っていったものである。

 

軍刀といえば、台北にある国軍歴史文物館には野田少尉が百人斬りの際使用した軍刀というものが展示され、南京の虐殺記念館には野田少尉と向井敏明少尉が百人斬りで使用した刀のレプリカが展示されている。マサさんは言う。

 

「兄の軍刀は押収されていません。兄の軍刀が展示されているというのでまったく驚きました」

 

野田少尉の軍刀が遊就館に展示されるなら、百人斬り競争が虚構であることはあらためてはっきりするであろう。

 

南京虐殺と聞いて浮かぶ中国人といえば、李秀英、夏淑琴、朱成山ではなかろうか。前の2

人は被害者だと言って日本の裁判所で訴訟を起こした女性である。3人目の朱成山は南京虐殺祈念館の館長だ。南京虐殺については門外漢だったが、平成4年に党から虐殺祈念館へ派遣され、やがて館長となり、平成27年末まで24年間勤め、南京虐殺というと名前の挙がってきた人物である。

 

朱成山はこれまで13回来日し、講演を繰り返し、館長を退いて一年、今年もやってきて各地で講演をした。最後に12月15日に東京で講演会を行い南京虐殺について語ったが、日本は断乎として否定しなければならないと思わせるものだった。

 

朱成山によれば、南京虐殺を主張する根拠は南京軍事法廷と東京裁判の判決だという。南京軍事法廷は三十四万人という判決を下し、東京裁判は20万以上という判決だったがそこに加えられなかった10万人があるので犠牲者は30万人以上になる。これらから、慎重に言っても30万人の虐殺があったのが南京虐殺である。これら判決は、昭和24年に中華人民共和国が誕生する前、すでに下されていた。こう言う。

 

中華人民共和国は、昭和50年代に入ってから南京虐殺を言い出し、昭和60年に祈念館を造った。南京攻略戦から40年後である。ということは、そのころ何か証拠が見つかったから言い出したと普通なら考えるが、そうではなく戦争裁判を受け継いでいるだけなのである。

 

講演の多くは資料収集について割かれた。たとえば、アメリカのイエール大学に資料があることを発見した、マギー牧師の息子の家に行ってフィルムを見つけた、ドイツのラーベの娘の家で日記を見つけた、南京では被害者探しをして犠牲者として認められた千人余から証言を取った、という話である。

 

言うまでもないことだが、当時南京にいた欧米人は中華民国と何らかの関わりがあった人で、残されているものは意図的なものがほとんど、また半世紀以上も経ってからの証言に価値がないのは言うまでもない。

 

東京の講演のまえ名古屋で講演が行われたが、20万人の南京でなぜ30万人の殺害が起きたのかという質問が会場から上がった。気になったのだろう、東京の講演の最後で朱成山はそれについて触れた。朱成山の説明はこうだ。

 

南京の人口は100万人で、そのうち半分が南京から逃げ、半分の50万人が残った。このほか上海などから何十万という人が逃れてきて、さらに南京には11万の中国軍がいた。南京には多数の人がいたのであり、20万というのは城内の難民区にいた人の数である。

 

こういう説明で、30万人を殺してもまだまだ南京には人がいたと朱成山は言うのである。これは言うまでもなく南京虐殺を主張する日本人が使ってきた元の人口を増やすという手法で、驚くことではないが、朱成山もここに逃げこまなければ他に道はないのである。事実はこうだ。

 

南京の人口は100万人で、そのうちの85万人が城内と、城外でも城壁のそばに住んでいた。この広さは南京市全体の一割強である。残る15万人が郊外に住んでいた。郊外は南京市面積の9割弱を占める。つまり、市民のほとんどは南京城という中心に住んでいて、15万人が点々と住んでいたということになる。

 

南京城にいた85万人のうち65万人ほどは4か月の間に南京を去り、20万ほどが残った。このような状況を見て南京警察庁長官は南京にいる数を20万人といったのである。郊外にいた15万人は、そこから避難した人もいたし、とどまった人もいただろう。

 

朱成山は南京に何十万人もが避難してきたと言うが、そのような記録はなく、まったくの作りごとである。南京が戦場になると知っていたから市民は逃げたので、そういう南京にわざわざ逃げてくる中国人はいない。

 

また中国軍は10万弱だったが、12日夜に撤退命令が出され、それにより大きく4つに分かれる。脱出に成功した一団、城外で日本軍と交戦した一団、城外で捕虜となった一団、難民区に紛れこんだ一団である。中国軍の存在によって南京の数が10万も増えるわけでない。

朱成山は自分の説明を信じているのだろうか。24年も調査研究をしてきてわからないはずはない。事実を承知でこのような詭弁を弄しているのだろう。

 

南京にいた中国人が20万人前後であることは変わらず、名古屋の講演会場で上がった疑問は当然なのである。朱成山が強調する30万人は簡単に崩壊したのである。
 


ミャンマーのセイン・ウィン国防相が9月21日に防衛省を訪れ稲田朋美防衛相と会談した。その席でセイン・ウィン国防相はこう繰り返し語った。

「ビルマ独立義勇軍と日本軍が英国の植民地支配を打ち倒した。日本兵と日本に対し、いつも感謝している」

昭和16年2月、鈴木敬司大佐を長とする南機関が発足した。鈴木大佐のほか9人の機関員からなり、目的はビルマ(現在のミャンマー)を独立させることで、そのため兵器を供与し、幹部要員に軍事訓練をするというものである。さっそく工作が始まり、アウン・サン(アウン・サン・スー・チー国家顧問兼外相の父親)はじめ独立の志士が次々と日本にやってきた。やがて海南島で軍事訓練が始まり、大東亜戦争開始とともに彼らはビルマに入った。そのうちの一人であるネ・ウィンはゲリラ工作の班長を務め、日本軍の快進撃もあって、昭和18年8月、ビルマは独立を果たした。アウン・サンは首相の座に就いた。しかし日本が大東亜戦争に敗れたため、イギリスがビルマに戻ってきて再び独立の戦いが始まる。このとき独立義勇軍は軍艦マーチを奏で、日本式号令で戦い、昭和23年1月にあらためて独立を勝ち取った。


独立の志士の多くはビルマ政府の中枢に入るが、彼らは南機関員が心から独立を願っていたことを知っていた。賠償問題が起きたとき南機関員が両国の橋渡しを務めたのはビルマ政府が彼らを信頼していたからである。昭和56年、大統領となっていたネ・ウィンは鈴木機関長夫人以下7名の日本人を招待し、勲章を贈った。これも南機関員が独立のためどれほど働いてくれたか知っていたからである。そういった評価がその後も変わることなく、今回のセイン・ウィン国防相の発言となったのだろう。

9人の機関員の1人が野田毅大尉である。
野田毅は、陸軍士官学校を卒業すると、南京攻略戦に参加した。やがて南機関の一員としてビルマ独立に奔走する。アウン・サンは面田という日本風の名を持ち、野田毅と面田の交流は「野田日記」(展転社刊)に描かれている。ビルマ独立義勇軍は、鈴木敬司司令官、野田毅参謀長、アウン・サン高級参謀という陣容から成っていたのである。

戦後、野田毅は百人斬り競争をしたとして南京で銃殺刑となった。処刑は戦時宣伝と復讐がからみあったもので、まったくの濡れ衣であった。野田毅が処刑されなければ、昭和59年に鈴木未亡人とともにビルマに招待され、勲章を受けていただろう。

平成13年、濡れ衣を晴らしたいという遺族の気持ちを知った稲田朋美弁護士は法廷に訴えた。野田毅の生家のある鹿児島錦江町に足を運び、野田毅の墓に線香をあげ、錦江町の町民に野田毅が無実であることを訴えた。いわゆる百人斬り訴訟で、稲田弁護士はこの訴訟を一から進めた。結果として法廷で濡れ衣を晴らすことはできなかったが、4年にもわたり尽力した。

あれから10年、稲田弁護士は稲田代議士となり、いまは防衛大臣の地位に就いている。セイン・ウィン国防相が稲田朋美防衛大臣に繰り返した言葉を野田毅はどんな気持ちで聞いているだろうか。