毎年五月十八日は、松井石根大将をはじめ大東亜戦争の戦没者を慰霊するための法要が興亜観音で行われ、興亜観音にとりもっとも重要な日である。この日、相模湾一帯は晴れ、蒸し暑い日であったが、伊豆山の中腹は爽やかな風が吹いていた。午後一時、住職の伊丹妙浄さんの読経で法要は始まった。二十人近くが参列し、全員が焼香、四十分ほどで法要は滞りなく終わった。
興亜観音は、昨年秋、建立以来はじめてという大雨に見舞われている。鉄砲水が参道を横断、コンクリート道路が浮き上がり、何か所かで参道が遮断された。杉の木が何本も倒れ、麓の国道は水で溢れかえった。急斜面に建つ庫裏も床下浸水したほどだったが、幸いなことに露仏の興亜観音やお堂はなにごともなかった。
お堂や休憩所には名画が掲げられている。昨年、平凡社から「別冊太陽 画家と戦争」が刊行され、興亜観音に掲げられている絵画が紹介された。本堂には堂本印象の龍、宮本三郎の中国人の生活、西村真琴のアジア女性の絵画が掲げられ、休憩所には栗原信の黄河治水、吉田初三郎の南京城鳥瞰図が掲げられている。当時の代表的な画家が描いたもので、「別冊太陽 画家と戦争」によりこれら絵画が改めて注目されるとともに、松井大将がいかに中国を思っていたかも示しているが、それら絵画はすべて無事だった。例大祭までには参道の復旧も終わっていた。
法要が終わり、住職の伊丹妙浄さんがこんな話をした。新年早々、三十代の男性が参拝に来た。聞くと、靖国神社にお参りに行ったところ、かつての軍人から興亜観音のことを聞き、それではと新幹線に乗って参拝に来たという。
これに限らず、若い人の参拝がよく見られるので楽しみだと妙浄さんは言う。かつて参拝する人は、松井大将の部下や南京攻略戦に参加した将兵など直接関わりのある人がほとんどだったのである。
この話をきっかけに、参拝者が思い思いに話をはじめた。
沼津から来た五十代の男性は、沼津にある日蓮宗の「妙覚寺」に興亜観音と刻まれた石碑が建っており、字体が松井石根大将のものと似ていることから、松井大将を崇拝している檀家の一人が建てたのだろう、という話をした。
同様な石碑は全国に何か所かあると妙浄さんがそれに答え、アジアの平和を願った松井大将の考えに共鳴した人が全国にいたことがわかる。
東京から参列した人は、興亜観音を知ってまだ数年だが、年に三度はお参りするという。
境内には猫が多いですね、という声が上がったが、この山に猫を捨てる人があり、興亜観音ではそれを飼育しているうちに増えてしまったという。松井大将は犬をかわいがったが、いまでは「猫寺」と地元の人は言う。
興亜観音の今年後半の行事は八月十五日と十二月二十三日に行われる慰霊法要で、それぞれ午後一時から行われる。誰でも参拝できる。