『昭和16年夏の敗戦』(猪瀬直樹著)のなかにこういう記述がある。熱海の興亜観音について書かれた部分だ。
「熱海市伊豆山にある興亜観音は、ひっそりとしていた。オレンジ色で背丈約二メートルのこの露仏像は、昭和十二年十二月に起きた南京大虐殺で血に染まった土を、運び固めてつくられたものである」
「松井大将の南京入城は、陥落後であり彼自身は結核の病状が悪化して後方で指揮をとっていた。大虐殺を知るのは入城後である。したがって司令官自身は虐殺に加わっていない。後の祭り、だった。興亜観音の建立は、彼の贖罪意識の顕れである」
『昭和16年夏の敗戦』は、大東亜戦争をまえにして総力戦研究所に集められた若きエリートたちの働きを描いたもので、昭和五十七年に月刊誌に連載された。翌年、単行本にされ、その後、文庫としても発売となり、平成十二年には猪瀬直樹著作集十二巻の一冊として刊行された。
猪瀬直樹はノンフィクション作家であり、『昭和16年夏の敗戦』を含め猪瀬直樹著作集の十二冊はすべてノンフィクションである。しかしここに引用した部分はまったくのフィクションだ。
前者でいえば、露仏像は「南京大虐殺で血に染まった土」でつくられたものでなく、上海の激戦地である大場鎮の土と日本の瀬戸の土とでつくられたものである。
後者では、松井石根が「大虐殺を知るのは入城後」でなく、八年経ち、戦争に負けてから、アメリカ制作のNHKラジオ番組「太平洋戦争史」によってであり、観音像を建立したのは「彼の贖罪意識の顕れ」でなく、日中は手を携えるべきだという年来の主張から来るもので、上海で斃れた日中の兵士への供養のためである。
この本では、興亜観音や参道も描写されており、実際、猪瀬は伊豆山に行ったようだ。
しかし興亜観音を、
「その視線は、遠く中国・南京を向いている」
と描写している。
松井石根の贖罪意識を強調するためこう書いたのだが、興亜観音に正対すると、興亜観音は太平洋に目を向け、大陸に背を向けている。南京に向いてないことはすぐにわかる。
連載した昭和五十七年といえば、伊丹忍礼さんが堂の住職をしており、聞く気があれば話を聞けたはずである。松井石根から堂守りを頼まれた伊丹忍礼さんがここにかかれているようなことを言うはずはない。話を聞いたけれど、南京事件を事実だとして、こうフィクションしたのだろう。興亜観音を見たけれど、平気でこう書いた。
猪瀬はファクト(事実)とエビデンス(証拠)を重要視してきたというが、ノンフィクション作家としては当然のことである。しかし彼のノンフィクション手法とはこういうものだったのだ。
あれから三十一年が経ち、東京都知事となり、医療法人徳洲会グループからの五千万円借用について何度も発言が変わった。猪瀬は「できるかぎり、ファクトに忠実に発言してきた」と述べたが、猪瀬のいうファクトがどういうものか明らかであろう。
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>仏像は「南京大虐殺で血に染まった土」でつくられたものでなく
>上海の激戦地である大場鎮の土と日本の瀬戸の土とでつくられたもの
>観音像を建立したのは「彼の贖罪意識の顕れ」でなく
>日中は手を携えるべきだという年来の主張から来るもの
>上海で斃れた日中の兵士への供養のためである。
昭和40年代前半頃に、大陸中華戦について詳しいという、比較的上層部らしい方が、
「(大陸中華で)最大規模の戦闘で、双方最多数の死傷者が出たのは、上海戦だった」
と仰っていました。その方の御話によると、双方とも、死傷者が一番多く、最も激戦となった闘いだったそうです。
私も、興亜観音の土は南京の土なのかと、認識違いのまま思っていました。
<興亜観音の土は、上海と瀬戸の土>との事。
御紹介の事実を伺い、「大陸中華最大規模の戦闘は、上海戦」が事実だとの確証が高まりました。
南京入城後の処断は、南京城内で大日本帝国軍人を装った中華軍人の犯罪者達が捕まって居ますし、ある程度まとまった人数は居ても、「30万人という人数は偽証」「一般人虐殺、婦女暴行数万人も偽証」だという所でしょうか。
当時、南京に残された貧しい人々が、逞しく≪泥棒市≫で生活を開始していた姿。盗品の一番人気は「掛時計」だったとの話。盗品は、窓、扉、絨毯なども人気だったとか。南京で盗んだとして、その後其れを持って移動した大日本帝国軍人達の姿を想像すると…。
興亜観音の御説明を、ありがとうございます。
蒋介石の国民党軍が、南京攻略戦時の事を、大日本帝国軍が冤罪を被せられた分、訂正して下さるといいですね。