中華民国といえば、南京事件を宣伝した張本人である。国共内戦が起き、中国共産党に敗れて台湾に移ると、南京事件も大陸から台湾に移った。昭和四十七年、日本が中華民国との外交を捨て、中華人民共和国と国交を結ぶとき、中華民国は南京事件を持ちあげて日本を非難した。日本を攻撃するとき、中華民国は南京事件を持ち出してくるのである。いま中華民国は南京事件をどう見なしているのだろう。
中華民国で一番のベストセラー作家は龍應台だという。彼女は、平成七年、処女作である評論集「野火集」を上梓、これが空前のベストセラーとなった。その後、大学教授や役人を歴任、平成二十一年に発売した歴史ノンフクション「台湾海峡一九四九」は四十万部を越え、処女作をしのぐベストセラーとなった。現在は文部大臣の職に就いている。台湾を代表する作家であり、知識人と言えよう。龍應台の父親は、湖南省に生まれ、日本軍が南京を攻めるとき、憲兵団の一兵士として雨花台で戦っている。憲兵団は蒋介石が信頼する部隊の一つで、雨花台で防衛に就いた後、命令により南京を後にする。その後、父親は昇進し、蔣介石が台湾に逃れるとき憲兵隊中隊長まで進む。父親も台湾に逃れ、そこで龍應台は生まれた。いわゆる外省人である。
「台湾海峡一九四九」のなかで龍應台は、そういった父母の生涯を描くとともに、日本統治下で日本兵士を目指す台湾人、彼たちが監視する国民党の捕虜などを描いた。舞台は南京から長春やニューギニアまでに及び、戦争に翻弄される人たちが描かれ、それが人気を得ている理由のようだ。そういったなかで南京事件が触れられている。
国共内戦では、長春で激しい戦いが行われたが、その包囲戦に触れたあと、龍應台はこう記述する。
「聞いてほしい。どうしてもわからないことがあるのだ。これほど大規模な戦争暴力でありながら、どうして長春包囲戦は南京大虐殺のように脚光を浴びないのか? どうして数多くの学術発表がされたり、口述記録が広く残されたり、年二一回は報道キャンペーンがあったり、大小さまざまな記念碑が建ったり、広大で立派な記念館が完成したり、各方面の政治リーダーたちが何かにつけて献花していたり、小学生が整列して頭を下げたり、フラッシュを浴びるなか市民が黙祷を捧げたり、記念の鐘が毎年鳴り響いたりしないのか?」南京事件を疑いのない事実と見なしている。
南京事件同様に中華民国が宣伝したのは八百烈士だ。昭和五十一年にも八百壮士を描いた映画が中華民国で大当たりとなったことは鈴木明が「新『南京大虐殺』のまぼろし」で紹介しているが、龍應台も勇ましい彼たちについて記述している。これらによって、中華民国の戦時宣伝はいまも続いていることがわかる。文部大臣がこのように記述し、それが空前のベストセラーとなっているのだから、南京事件は国民が共有しているのだろう。
ところで、南京虐殺が中華民国の戦時宣伝なら、三光作戦は中華人民共和国の戦時宣伝である。中華民国では、中華人民共和国の宣伝である三光作戦を口にする人などいなかったのだが、昭和五十年代半ばに中華人民共和国が南京事件を言うようになると、そのお返しのように、三光作戦を言うようになった。
龍應台は、参謀総長の梅津美治郎大将についての部分で、こう記述する。
「権力を盾に『梅津―何応欽協定』の調印を何応欽に強要し、華北を勢力下に置いたのが彼である。そして『煁滅作戦(三光作戦)』を発動し、中国の、村々を焼き尽くし、殺し尽くし、奪い尽くした――それが彼である」
中華人民共和国をまねしたからなのか、中華人民共和国の言っている三光作戦とは違う。中華人民共和国は、昭和十六年ころの華北の日本軍の作戦を三光作戦と言っており、そのとき北支方面軍司令官は岡村寧次大将である。梅津美治郎大将が華北の司令官をしていたのは昭和十三年から十四年にかけてのことだ。岡村大将がそんな作戦を発動したわけでないから、岡村であろうが、梅津であろうが、どうでもいいのだが、中華民国の文部大臣までが三光作戦を口にするようになったのは、日本が戦時宣伝に対し毅然と反論していないからであろう。