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松井大将と第三師団の汚名をそそげ!(阿羅健一)

 南京事件の責任を負わされ絞首刑となった松井石根大将は名古屋に生まれている。武士の家柄で、陸軍大学校を一番で卒業、大将まで累進した。孫文の大アジア主義に共鳴し、進んで中国関係の部署に勤務、中国人の友達知人も多かった。南京攻略が終わって、翌年二月、凱旋帰国すると、上海でたおれた日中双方の将兵を思い、観音像を建立して弔おうと考えた。東亜同文書院を卒業した岡田尚に命じて激戦のあった上海の土を送らせ、名工に観音像を建立させ、興亜観音と名づけた。予備役に戻っていた松井大将は、熱海の伊豆山に堂を作り、興亜観音像をおさめると。そのふもとに越し、お参りすることを日課とした。

 名古屋に師団司令部を置いていた第三師団は上海の戦いで兵隊がすっかり代わるほど苦戦を強いられた。上海占領、南京陥落、という華々しい声に消されてその苦戦が語られることは少ないが、日露戦争の旅順攻略に勝るとも劣らない犠牲を払った。

 南京を攻略することになったとき、上海派遣軍では苦戦した第三師団にも花を持たせようと、十二月十日、急遽、歩兵第六十八連隊と砲兵隊に参戦を命じた。歩兵第六十八連隊は第三師団を代表して南京に急行、十二月十三日、武定門から入り、一帯と通済門を掃蕩した。第三師団は南京攻略の栄をにない、警備のため十日近く南京にとどまった。

 このように名古屋は南京事件と無縁ではない。

 三十年ほど昔のことになるが、松井大将の生地を訪れたことがある。整地されて、すでに建物はなかった。名古屋に松井大将の手がかりを見つけようとしても今では簡単に見つけることはできない。名古屋市民の多くは河村発言を他人事と思っていないだろうか。

 河村発言は出るべくして出たものであろう。処刑された松井大将と多大な犠牲を払った第三師団の汚名を払うためにも、中華人民共和国と議論をして真実を知らせなければならない。

(阿羅健一)

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