いわゆる南京大虐殺は東京裁判での証拠、判決を拠り所として日本軍が虐殺した人数は20万人、ある時は30万人とも言われてきました。虐殺数について決定的な証拠となったのは、慈善団体の「崇善堂」が埋葬した死体11万2,000余、「紅卍字会」が埋葬した死体4万3,000余、計155,000の死体を埋葬したとする埋葬表でした。この埋葬表がどれほど判決の決定的証拠となったかは、次の判決文の記述からあきらかです。
「後日の見積もりによれば、日本軍が占領してから最初の六週間に南京とその周辺で殺害された一般人と捕虜の総数は、二十万人以上であったことが示されている。これらの見積もりが誇張でないことは、埋葬隊とその他の団体が埋葬した死骸が、十五万五千人に及んだ事実によって証明されている。」
このように埋葬表がそっくりそのまま認定され、南京大虐殺の決め手となりました。しかし、11万人余の遺体を埋葬したと伝えられる「崇善堂」ですが、南京戦の前後に埋葬活動を行っていた形跡はなく、仮に行っていたとしても微々たるものであったことが、中国側の記録などから判明しています。
以下は「崇善堂」の埋葬活動の実態がなかったこと、つまり「崇善堂」の埋葬記録は虚偽であったことを証明した新聞記事(1985年8月10日産経新聞)です。今回、改めて記事を文字に起こすとともに、外国人の方にもご理解いただき易いように参考英訳を作成しました。ぜひ内容をご確認いただくとともに、外国人の方との議論などにもお使いいただければ幸いです。

【1985年8月10日 産経新聞】
「南京大虐殺」に新史料!
日中戦争当時の昭和十二年十二月から翌年一月にかけ、旧日本軍が中国・南京市で多数の中国市民や捕虜を虐殺したとされる「南京大虐殺」の直後、十一万人余の遺体を埋めたと伝えられる南京市の慈善団体「崇善堂」が、実際には埋葬活動を行っていないと読みとれる中国側の記録などが九日までにみつかった。民間の歴史研究家が国立国会図書館の史料の中から発掘したもの。戦後の極東国際軍事裁判(東京裁判)では、検察側が崇善堂などの申し立てに基づく埋葬数を「大虐殺の動かぬ証拠」として提出、それが犠牲者数「二十万人」「三十万人」説の最大の基礎となっているが、新発見の記録は、今日なお決着のつかぬ犠牲者数論争に強く影響しそうだ。
【石川水穂記者】(2022年6月4日死去)
(タイトル)慈善団体「崇善堂」の埋葬活動はなかった
(サブタイトル)11万の数に疑問
東京裁判 検察側証拠くつがえす 犠牲者数論争に一石
発掘された新史料は、「中華民国二十七年度(昭和十三年度)南京市政概況」(督辨南京市政公署秘書処編集)「南京市政府行政統計報告 民国二十四年度(昭和十年度)」(南京市政府秘書処発行)、「南京」(南京日本商工会議所編、昭和十六年八月発行)の三点。
いずれも南京市の行政の実情などをまとめたもので、「概況」と「報告」は中国語で、「南京」は日本語で書いてある。これらを見つけたのは、昭和史を研究している東京都文京区本郷、出版兼著述業、阿羅健一さん(四一)。
東京裁判で検察側は、崇善堂が虐殺事件後四カ月間に犠牲者十一万二千二百六十六人の遺体を、同じく慈善団体の紅卍字会が十カ月間に四万三千七十一人を埋葬したとして提出した統計表に基づき、合わせて少なくとも十五万五千人余が虐殺されたと主張したが、新史料の記述はそれをくつがえす内容となっている。
まず、三点の史料には、いずれも当時の南京市内の慈善団体、その活動について記した項目があり、紅卍字会については「施米」「施診」「施薬」など通常の事前活動のほか、「掩埋(えんまい=埋葬の意味)」「収容」「埋葬」といった文字が書き込まれ、実際に遺体処理を行っていたことがはっきりと記録されている。
ところが、崇善堂の活動項目には、「保嬰(ほえい=乳のみ子を育てること)」「施診」「施薬」「散米」といった文字はあるものの、埋葬に関係する文字はどこにも見当たらない。
さらに決定的なのは南京事件の直後に編集、発行された「南京市政概況」では、紅卍字会の項目には「工作進行(活動が続いている)」と記してあるが、崇善堂の項目には「工作進行範囲狭小(活動は続いているが、規模が小さい)」とあり、事件後の遺体埋葬について書いたくだり(掩埋隊之組織)でも、「紅卍字会」「自治委員会救済課(自治委員会は南京市の難民区にできた自治組織)」の名前はあるが、崇善堂の名前はない。
また、南京日本商工会議所編の「南京」には、「民間各種慈善団体は事変の為資金難に陥り、一時停頓したが、振務委員会の補助を受け漸次復旧し…」というくだりがあり、崇善堂が本格的な活動を再開したのは事件後八カ月も経った「昭和十三年九月から」と記録され、事件後四カ月間に十一万余埋葬という検察側主張とくい違っている。
「この三点の史料を見る限り、南京攻略戦の前後に崇善堂が埋葬活動を行っていた形跡はどこにもない。仮に行っていたとしても微々たるもので、日本軍の南京攻略後四カ月間(昭和十二年十二月二十六日から十三年五月一日まで)に十一万人もの遺体を埋めることができたとはとても思えない。東京裁判に出された証拠の中で、紅卍字会はともかく、崇善堂の埋葬記録は信ぴょう性を欠くものであることがこれではっきりしたと思う」と阿羅さんはいう。
発掘の動機について「検察側が出した数字は、紅卍字会に比べて崇善堂の数字が誇大に過ぎるのではないか、とういう疑問が裁判当時から指摘されてきたが、証明する決定的な証拠を探そうと思った」と語る。
今回の史料を見る限り、従来伝えられていた崇善堂の埋葬活動や東京裁判での検察側証拠に大きな疑問が投げかけられたことになり、南京事件論争に新史料としての重みを持ちそうだ。
南京大虐殺
旧日本軍が当時の中国の首都、南京市を攻略、占領した際に発生したとされる南京虐殺については、日本国民は終戦後の東京裁判で初めて知った。
この裁判で検察側(連合国側)の主張に対し、弁護側は「数字が誇大すぎるのではないか」と反論したが、ウェッブ裁判長は検察側の主張を全面的に取り入れ、殺された市民と捕虜の総数を「二十万人以上」と認定した。
一方、中国政府はこの二団体の埋葬記録以外に、当時の南京市民の証言を加え、犠牲者総数三十万人と発表。
これらを根拠に日本のかなりの歴史教科書が「二十万」「三十万」という数字を使用している。
これに対し、①南京陥落の直前、南京からどれだけの市民が避難し、どれだけ残っていたのか(平時の人口は百万)②虐殺の被害者の中に正規の戦闘で死んだ中国兵を含めていないか、などの疑問を持つ人々との間でホットな論争が続いている。
(写真のキャプション)
事件直後に発行された中国側の記録「南京市政概況」の、紅卍字会の項目には「掩埋(えんまい)」「収容」の文字はあるが、崇善堂の項目にはない
