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谷野作太郎氏の考える南京事件へ反論

昭和五十七年に教科書誤報事件が起きたとき、外務省は検定なしで南京事件を教科書に書けるようにし、根拠を示さなかった。そのとき鈴木善幸総理大臣の秘書官をつとめ、総理大臣へアドバイスしていたのは、外務省から出向した谷野作太郎氏である。

平成六年五月十六日、羽田孜総理大臣が参議院本会議で「南京入城後、非戦闘員の殺害あるいは掠奪行為等があったことは私どもも否定できない」と述べたとき、それら事項を担当する内閣官房内閣外政審議室の室長をつとめていたのは谷野作太郎氏である。

平成十二年一月二十六日、「20世紀最大の嘘、南京大虐殺の徹底検証」という集会が大阪で開かれたとき、谷野作太郎氏は駐中国大使としてこう述べている。「日本政府は南京で非戦闘員の犠牲者が出たのは事実だと見ている」。

 外務省のなかで南京事件を押しすすめてきた中心は谷野作太郎氏であり、令和五年四月三日の林芳正外務大臣の発言を受け、谷野氏はどんな根拠から南京事件を事実とみなしているか、尋ねた。

 谷野作太郎氏は林芳正外務大臣の答弁について、

 「その場には外務省の担当者も居たはず、いくら何でもお手紙にあるような単純な回答だったのか、信じ難い気持ちです」

 と述べ、南京事件の根拠を四つあげた。

  • 防衛省防衛研究所戦史室「戦史叢書 支那事変陸軍作戦(1)」
  • 偕行社「証言による南京戦史」

3、「南京虐殺現場の心情」

4、「証言による南京戦史」の歩兵第九連隊旗手

これにくわえ、三冊の研究書もあげた。

5、秦郁彦「南京事件」

6、「日中歴史共同研究報告書」(日本側の報告部分、石射東亜局長の「外交官の一生」の該当部分)

7、松本重治「上海時代」(そのなかの松井大将の訓示)

これらを見ると、検定なしで記述させたとき根拠は1と7だけなのに驚く。ほかの五つはそれ以降に刊行されたり、明らかになったりしたからである。ともあれふたつから見ていく。

1「戦史叢書 支那事変陸軍作戦(1)」は、防衛省防衛研究所戦史室が編纂した日本の公刊戦史である。この巻は支那事変開始からの半年間を扱い、昭和五十年に刊行され、南京攻略戦を記述したあと「南京事件について」という注を設けている。

そこで何を記述しているかといえば、南京事件は東京裁判で取りあげられ、「証拠を些細に検討すると、これらの数字は全く信じられない」と記述している。

「戦史叢書(1)」は林外務大臣もあげ、ホームページに該当する記述があると答弁したので、和田議員が「今挙げた文書ですけれども、戦後三十年が経過して作られている文書でありまして、私、関連文書全部読みましたけれども、意図的に日本軍が殺害したとの明確な記述はない状況でありました」と指摘し、林外相は何も反論していない。

 和田議員は四月二十三日の参議院決算委員会でも取りあげ、外務大臣は戦史叢書に該当記述があると答弁したがどの文言か質問した。すると林外務大臣はこう答弁した。

「ここからが記載でございますが、遺憾ながら同攻略戦において略奪、婦女暴行、放火等の事犯が頻発した、これに対し軍は法に照らし厳重な処分をした、たとえ少数であっても無辜の住民が殺傷され、捕虜の処遇に適切を欠いたことは遺憾である等の記載があると承知しております」

この答弁に対し和田議員がこのように反論している。

「今の答弁の前段部分ですけれども、これは略奪等について記したものであり、住民の殺害等について記したものではありません。そして、答弁の後段部分、たとえ少数であっても無辜の住民が殺傷されの記述ですけれども、これは日本軍が意図的に住民を殺害したという文脈で記されているのではなく、非戦闘員や住民が巻き添えを食らって死亡したとの記述に続く文脈の中で記されているものです。さらに、たとえ少数であっても無辜の住民が殺傷されの直前の文章は、南京附近の死体は戦闘行動の結果によるものが大部分であり、計画的組織的な虐殺とは言い難いというものです」

 こう指摘したうえ、戦史叢書が参考にした文献についてこう付けくわえる。

 「その参考文献である当時の参謀本部の資料、軍令部の資料などを国立国会図書館などから取り寄せて私は全て読みましたけれども、戦後のものも含め、政府の公式文書からは日本軍の意図的な住民殺害についての明確な記述はありませんでした。ですから、この戦史叢書「支那事変陸軍作戦」においても、住民が巻き添えを食らって死亡したとの記述になっているのです」

外務省は公刊戦史というので戦史叢書を持ちだし詭弁を弄しただけで、南京事件の証拠となっていない。谷野氏はそういったものを挙げているのである。

7の松井大将の訓示は、同盟通信上海支局長であった松本重治の「上海時代」のなかに松井最高指揮官がこのような訓示をしたと書かかれている。これも昭和五十年に刊行されている。

「松井最高指揮官が、つと立ち上がり、朝香宮をはじめ参列者一同に対し、説教のような演説を始めた。深堀中佐も私も、何が始まったのかと、訝りながら聴いていると、『おまえたちは、せっかく皇威を輝かしたのに、一部の兵の暴行によって、一挙にして、皇威を墜としてしまった』という叱責のことばだ。しかも、老将軍は泣きながらも、凛として将兵らを叱っている」

松井最高指揮官がこう叱責した背景にはつぎのようなことがある。

十二月十七日の入城式のあと、松井最高指揮官は塚田参謀長から、南京入城以来十ないし二十の窃盗、殺人、殴打、強盗が起きた、という報告を受けた。

上海に戻ると、二十六日に南京と杭州で掠奪や強姦が起き、二十九日にも南京の日本兵が各国大使館の自動車などを掠奪した、との報告を受けた。

年が明けた一月七日、上海に来た阿南惟幾陸軍省人事局長に面会すると、阿南局長は中島今朝吾第十六師団長の指揮ぶりを批判し、中支における軍の軍紀・風紀を話題とした。

日本軍は難民区に集まった南京市民に対し帰宅をうながし、二月四日にも帰宅命令を出した。松井最高指揮官が二月六日に南京を訪れたとき、市民の半分はまだ難民区に残っており、松井最高指揮官は日記にこう書いた。

「支那人民の我軍に対する恐怖心去らず、寒気と家なき為帰来の遅るる事固より其主因なるも、我軍に対する反抗と云うよりも恐怖・不安の念の去らざる事其重要なる原因なるべしと察せらる」

 このようなことがあり、二月七日の訓示となったのである。

 松井最高指揮官は司令官に任命されると、まっさきに「無辜の彼国民に対しては善く仁慈を施し」と訓示している。日本軍の軍紀についてもたびたび訓示している。それにもかかわらずこのようなことであったため訓示となったもので、軍紀に厳しい松井司令官だったからこその訓示である。外務省ホームページのいうような市民殺害が起きたからではない。

 1と7を見ると、外務省は検定なしで書けるようにしたときから、南京事件の根拠を持っていなかったのである。

 それでは、2から6はどうなのか。

2、「証言による南京戦史」は、昭和五十九年から一年間にわたり、陸軍将校の集まりである偕行社の機関誌に連載されたもので、会員の畝本正己が執筆した。

畝本正己は、陥落後の南京に入った体験から南京事件はありえないとみなし、参戦者の証言により疑惑を払拭しようとした。連載は十一回まで進み、会員の多くは南京戦の実相を把握し、南京事件はなかったと考えていたところ、最終回の総括でとつぜん執筆者が代わり、それまでとすっかり変わった論調となった。総括はこう書かれた。

「重ねて言う。一万三千人はもちろん、少なくとも三千人とは途方もなく大きな数である。

日本軍が『シロ』ではないのだと覚悟しつつも、この戦史の修史作業を始めて来たわれわれだが、この膨大な数字を前にしては暗然たらざるを得ない。戦場の実相がいかようであれ、戦場心理がどうであろうが、この大量の不法処理には弁解の言葉はない。

旧日本軍の縁につながる者として、中国人民に深く詫びるしかない。まことに相すまぬ、むごいことであった」

畝本の原稿を没にしたうえ、一転して南京事件を認め、さらに詫びるとまで拡大した最終回となった。最終回の号が送られると、会員は驚き、偕行社は大騒ぎとなる。かつてなかったことで、騒ぎは収束せず、もう一度研究を行うことで解決を図ろうとされた。

あらためて始まった研究は平成元年に「南京戦史」としてまとめられる。研究では、いくつかの局面で、戦闘行為とみなすなのか、違法行為とみなすのか、編集委員の意見は分かれた。その結果、「南京戦史」は、

「本史の総括は本書全部を読まれた方が、御自分でなさって戴くこととし、委員会としては総括をしておりません」

と記述し、虐殺を認めることも、否定することもしていない。

「証言による南京戦史」はこのようなものである。

谷野作太郎氏はどの局面を違法行為と判定し、虐殺があったとしたのであろうか。朝日新聞の本多勝一記者はこんなことを書いている。

「南京大虐殺については、旧陸軍士官学校出身者の親睦団体『偕行社』が去年の暮れに刊行した『南京戦史』でさえ虐殺の実態を事実上認めている。この問題はすでに虐殺の『有・無』ではなく、『どれくらいの規模だったか』になった」

どの局面が違法行為か何ら説明せず偕行社が認めていると歪曲しているのだが、谷野氏もおなじではないのか。

3、「南京虐殺現場の心情」は、昭和五十九年八月五日の朝日新聞全国版に載った記事で、それによれば、歩兵第二十三連隊の上等兵の日記が発見され、「今日もまた罪のないニーヤを突き倒したり打ったりして半殺しにしたのを壕の中に入れて頭から火をつけてなぶり殺しにする」と書かれ、「南京虐殺の際の写真」という十二人の生首が転がった写真もあったという。

 歩兵第二十三連隊出身者からなる連隊会が調査すると、連隊会が戦記を編纂するさい利用した日記が浮かびあがるが、そこに朝日新聞のいう記述はなかった。

連隊会が宮崎支局長に面会を求めると、支局長は日記を見せるが、数メートル離れたところからしか見せない。そこで連隊会は抗議文を出すことにする。

抗議文が出されたため、朝日新聞は昭和六十年二月二四日に「『南京虐殺』と無関係 元都城23連隊の関係者が表明」という記事を載せた。

 これで決着したと思われたが、記事は宮崎版だけにしか掲載されなかったことがわかり、問題が再発し、そのころ写真は満洲事変のとき凌源で売られていた馬賊ものとわかる。

 昭和六十一年一月二十二日、朝日新聞は「おわび」と題する記事を掲載した。

「連隊会から『連隊は無関係』との表明があったため、改めて本社で調べた結果、日記は現存しますが、記事で触れている写真三枚については南京事件当時のものでないことがわかりました。記事のうち、写真に関する記述は、おわびして取り消します」

これでは日記の記述が正しいことになる。あらためて連隊会が抗議すると、朝日新聞は日記の一部を読みあげて反論する。

それにより、連隊会が戦記編纂のさい利用した日記であるとわかり、さらに、将校でなければ使わない記号が使われ、将校しか知らされていない命令が記述されていることもわかり、あとから書きくわえられた疑いがさらに強まる。

朝日新聞は和解を申しでるが、日記は見せられないという。昭和六十一年七月九日、連隊会は、日記が処分されないよう小倉簡易裁判所へ日記保全を申し立て、十二月十七日、肝心の部分を写真撮影してもよいと判決が下りる。

すると、朝日新聞は福岡地裁小倉支部に抗告し、確認はさきのばしにされる。

ここまで二年以上が経過していた。連隊会は高齢者で、いつまでも待つことができない。連隊会は朝日新聞があらためておわびを出すならと妥協する。

昭和六十二年一月二十二日、朝日新聞におわびがのった。

「いわゆる「南京虐殺」報道に関して、都城二十三連隊会<宮崎市>は朝日新聞社を相手に、当時の状況を記録した日記の証拠保全の申し立てを小倉簡易裁判所に行っていたが、二十二日、申し立てを取り下げた。取り下げに当たり『連隊は南京虐殺とは無関係』と表明した。

 この問題は、朝日新聞が五十九年八月、日記の内容を報道したのに対し、連隊側が『連隊として虐殺に関係したような印象を与えた』と反発していた」

 対立は収束したが、こういった日記が証拠にならないのはいうまでもない。

4、歩兵第九連隊旗手は、つぎのようなことである。

 「証言による南京戦史」に歩兵第三十八連隊副官児玉義雄の証言が紹介されている。

「連隊の第一線が、南京城一、二キロ近くまで近接して、彼我入り乱れて混戦していた頃、師団副官の声で、師団命令として『支那兵の降伏を受け入れるな。処置せよ』と電話で伝えられた。私は、これはとんでもないことだと、大きなショックをうけた」

 この証言に対し、歩兵第九連隊の連隊旗手中村龍平がこう証言している。

 「中島中将は、北支から中支戦線に転進するにあたって、次のように注意されました。

 “中支の戦闘は、北支のような呑気な戦闘ではない。住民の抗日意識は北支とは比較にならぬ。中国軍と一体になって、頑強に抵抗するであろう。たとえ住民といえども、警戒を怠ることなく行動せよ”

 果せるかな、白卯口上陸後の追撃作戦間沿道の住民によるゲリラ的襲撃をしばしば受け損害を出しました。ついには住民に対しても敵兵同様に警戒せざるを得ない状況なっていたように思います。

 歩三八連隊副官児玉氏が『師団司令部より”俘虜を認めず、処置せよ“の命令に戸惑った』と述懐しておられますが、師団長はどうも、そのような気持ちでおられたではないでしょうか」

この証言が証拠と谷野氏はいう。

 激戦の戦場では、勝利を確実なものにするため、敵が降伏を申し出てきても攻撃を続行し、師団命令のようなものが出されることがある。この場合、相手は戦闘員である。また、市民がゲリラ活動を行えば、国際法による保護は受けられない。これら証言が市民殺害の証拠とならないのは明らかである。

5、秦郁彦「南京事件」は、昭和六十年に刊行され、そのなかで秦郁彦氏はスマイス調査を引用し、八千人から一万二千人の一般人の犠牲者があった、としている。

 スマイス調査というのは、金陵大学のスマイス教授が戦争被害を調査して「南京地区における戦争被害」としてまとめたもので、秦氏はそのなかの南京市と江寧県と江浦県の死者を合わせ二万三千人とし、そこには中国軍による死者などあるだろうから二分の一から三分の一を割り引く必要があるとし、八千人から一万二千人を日本軍による一般人犠牲者としている。

スマイス調査については京都産業大学の丹羽春喜教授が分析している。使われている数字を分析し、それにより、兵士の暴行などで死亡した市民は中国軍によるもの六百十三人、日本軍によるもの六百六~七百二十人と弾きだしている。これをもとに丹羽教授はいう。

「日本軍が(おそらく誤ってであろうが)死亡させてしまった『シビリアン』の人数は、およそ、六〇〇~七〇〇人程度であったと考えることができるであろう」

こうもいう。

「南京市『市部』の『一般市民』に関する限り、『大虐殺』などは無かったということなのだ」

なぜこのような分析結果になったかといえば、つぎのようなことからである。

南京に難民区がつくられ、アメリカの宣教師が管理し、日本外交団が南京に来ると、彼らは一般人に犠牲者が出たという抗議書を提出する。スマイス教授はそのひとりである。

スマイスは日記形式の手紙を妻に送っているが、それによれば市民殺害を一件も見ていない。スマイスたちは陥落直後から抗議書という形で南京事件を宣伝していたのである。

年が明けると、スマイスたちの進めていた宣伝を中国も始め、国際宣伝処がスマイスに著作を要請する。スマイスはその要請に応じる。その結果、調査という名のもとに数字を操った「南京地区における戦争被害」が作成される。分析を専門としている丹羽春喜教授だからその操りを明らかにできたのである。

秦氏はスマイス調査を「すべての研究者たちから参考データとしての扱いしか受けていない」と述べ、信用できない数字であることを知っていながら市民の犠牲者数としている。秦氏のあげる数字が根拠とならないのはいうまでもない。

6、「日中歴史共同研究報告書」の日本側報告部分と、報告書に取りあげられた石射東亜局長の「外交官の一生」を見る。

平成十八年十月八日、日中歴史共同研究の立ちあげが発表され、日本側の座長に北岡伸一東京大学教授が就き、平成二十二年一月三十一日に報告書が発表された。注目されていた南京事件は全面的に認め、犠牲者をこう断定した。

「日本側の研究では20万人を上限として、4万人、2万人など様々な推計がなされている(秦郁彦『南京事件』から引用)」

これら結論もさることながら、わずか二ページの記述のなかに歪曲、剽窃が続出した。

たとえば、報告書が作成されるまでの十年間、日本では南京事件を扱った書籍が八十三冊刊行され、そのうち事件がなかったとするもの五十二冊、あったとするもの三十一冊である。それに対して報告書はこう記述する。

「日本の近代史の研究者の中で、南京で相当数の不法な殺人・暴行があったということを認めない人はほとんどいない」

また報告書は、

「偕行社は南京で調査を行い、周囲からの強烈な批判にもかかわらず、虐殺があったと認定している」

と記述するが、偕行社は南京で調査したことなく、2、「証言による南京戦史」で触れたように、虐殺を認めているわけでない。

日本側報告部分というのは、このような歪曲、剽窃を繰り返し、南京事件があったとした。

犠牲者についても北岡教授たちは自分の見方を示さず、代わりに秦氏の「南京事件」の記述をあげている。その秦氏の数字がどういうものか、5,秦郁彦「南京事件」ですでに見た。

日本側報告部分というのはこういったもので、南京事件の証拠にならない。

南京事件の報告にかかわった北岡教授たちは外務省から選ばれたが、外務省の気持ちを忖度すると思われたから選ばれ、期待どおり忖度したため、歪曲、剽窃が続出する記述となったのだろう。研究書はいわば外務省の自作自演である。

もうひとつの「外交官の一生」は、当時外務省の東亜局長であった石射猪太郎の回想録で、そこで石射猪太郎は、

「上海から来信、南京におけるわが軍の暴状を詳報し来る。掠奪、強姦、目もあてられぬ惨状とある。嗚呼これが皇軍か。日本国民民心の頽廃であろう。大きな社会問題だ」

と記述している。

南京にいた宣教師は、5、秦郁彦「南京事件」で述べたように、日本の外交団に抗議書を提出してきた。その抗議書について福田篤泰官補はこう語る。

「私は毎日のように、外国人が組織していた国際委員会の事務所へ出かけていたが、そこへ中国人が次から次へとかけ込んでくる。『いま、上海路何号で一〇歳ぐらいの少女が五人の日本兵に強姦されている』あるいは『八〇歳ぐらいの老婆が強姦された』等々、その訴えを、フィッチ神父が、私の目の前で、どんどんタイプしているのだ」

福田官補は続ける。

「『ちょっと待ってくれ。君たちは検証もせずに、それを記録するのか』と、私は彼らを連れて現場へ行って見ると、何もない。住んでいる者もいない」

報告書は中国人のいうままを記録し、実態のないものであった。いくつか起きたとしても、潜り込んだ中国兵が行ったことや、日本軍に見せかけたものである。

日高信六郎参事官は言う。

「これ等の大多数は伝聞でありました」

まわりもおなじように見ていた。ドイツ大使館事務長のシャルヘンベルグはいう。

「暴行事件といっても、すべて中国人から一方的に話を聞いているだけではないか」

こういった抗議書であったが、日高信六郎参事官がいうように、

「総領事館では事実を一々調査する暇もなかった」

ことからそのままにされ、それがそっくり本省に送られた。

そういったものを見て石射東亜局長は南京が大混乱していると受け取ったのである。南京を見ているわけでなく、宣教師の宣伝を事実と取ったものである。証拠にならない。

見てきたとおり谷野氏が証拠としてあげるものはどれも証拠にならない。南京事件の証拠は昭和五十七年からまったくなかったのである。