十月九日、ユネスコは中国が申請していた南京事件の登録を認めた。
ユネスコの世界記憶遺産は、消滅する恐れのある史料を保存しようというもので、同じユネスコの世界遺産や世界文化遺産とは違うが、これまで、イギリスの大憲章や日本の慶長遣欧使節関係資料などが登録されており、登録されるなら歴史事実として世界に認められる。
昭和の終わりまで、中国は南京事件をまったく無視していたが、ここ数年は、既成事実化に力を入れ、外交手段としての価値をより一層高めようとしてきた。かつて南京虐殺記念館を世界文化遺産にしようとして失敗したが、今回はこれまでの姿勢とまったく違っていた。
登録申請したことが明らかになったのは去年の六月で、そのため日本のさまざまな団体や個人がユネスコと接触、抗議するとともに、どのような史料を申請したか探り、「マギーフィルム」「程瑞芳日記」「マッカラムの手紙」などが申請されているとわかった。
マギーフィルムは、当時南京にいたマギー牧師が写したもので、病院の負傷者や城内の様子が写されている。もともと日本軍の残虐さをアピールしようと写されたものだが、写っている負傷者は十人に満たないもので、悲惨さはアピールできただろうが、日本軍の軍紀の乱れや虐殺が記録されたものではない。
程瑞芳日記は、金陵女子文理学院の舎監を務めていた程瑞芳の昭和十二年十二月の日記で、難民収容所となった金陵女子文理学院の実態が書かれている。日記によると、強姦と掠奪が九件起きているが、若い女性を中心に一万人ほど収容していた学院でこの件数というのは特記すべきことではない。その強姦にしても、金陵女子文理学院では中国軍の大佐を頭にした一段が日本軍の仕業に見せかけて強姦を繰り返していたし、掠奪は鶏などの食糧やお金といったもので、程瑞芳は一件の殺人も見ていない。
マッカラムは南京にあった病院で働いていた宣教師で、申請されたのは妻に宛てた手紙である。程瑞芳日記と同じように、日本軍の不規律が記載され、南京が大混乱に陥ったように書かれている。しかしそれらは抽象的な記述で、マッカラム自身が見た日本兵の事件は、強姦二件、連行・掠奪二件、掠奪、放火、破壊それぞれ一件である。
このようなことから、三つの史料は事件を証拠だてるものではない。中国が言うように三十万の虐殺があったなら、金陵女子文理学院にいた一万人は全員殺害されてなければならないはずだからである。またそのほかの、たとえば「谷中将軍事裁判記録」は、戦後になって行われた軍事裁判で、史料などと言えないものである。
早くからユネスコに接触していた「幸福の科学」は反論書を提出し、遅れて「『南京の真実』国民運動」も国際諮問委員会の十四人に反論資料を配った。
今年の初夏には、申請された九十六件のうち五から七件に対して不備があり、南京事件もそのうちの一つであるとユネスコが判断したことが明らかになり、申請は認められないだろうという見方が広まった。
しかし、中国の取り組み方は半端でない。登録の最終決定者である事務局長に対して習近平はすでに会っている。その事務局長に答申する国際諮問委員会の十四名にも中国は猛烈な攻勢をかけている。史料に不備があると連絡を受けると新たな史料を提出する。国を挙げての取り組み方で、決定ひと月前になると、国際諮問委員会は仮登録との決定を下した。
それに対して、これまでユネスコに働きかけていた個人や団体が座視していたわけでない。「『南京の真実』国民運動」は外務省がただちに行動を起こすよう要請した。自民党の外交部会も外務省に早急の対応を求めた。外務省の言い分によると、国際諮問委員会は説明を嫌っているという。しかし、十四人は歴史の専門家でなく、そういう人に対しては提出された史料が保存に価しないことを詳しく説明すべきであろう。
日本と中国の姿勢を比べると格段の違いがあり、恐れていた通り認められてしまった。こうなったのには、ひとえにこれまでの南京事件に対する外務省の態度と、申請されたとわかって以来の外務省の姿勢にあるだろう。
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「百人斬り競争」資料の集大成が刊行
平成二十七年の興亜観音例大祭
毎年五月十八日は、松井石根大将をはじめ大東亜戦争の戦没者を慰霊するための法要が興亜観音で行われ、興亜観音にとりもっとも重要な日である。この日、相模湾一帯は晴れ、蒸し暑い日であったが、伊豆山の中腹は爽やかな風が吹いていた。午後一時、住職の伊丹妙浄さんの読経で法要は始まった。二十人近くが参列し、全員が焼香、四十分ほどで法要は滞りなく終わった。
興亜観音は、昨年秋、建立以来はじめてという大雨に見舞われている。鉄砲水が参道を横断、コンクリート道路が浮き上がり、何か所かで参道が遮断された。杉の木が何本も倒れ、麓の国道は水で溢れかえった。急斜面に建つ庫裏も床下浸水したほどだったが、幸いなことに露仏の興亜観音やお堂はなにごともなかった。
お堂や休憩所には名画が掲げられている。昨年、平凡社から「別冊太陽 画家と戦争」が刊行され、興亜観音に掲げられている絵画が紹介された。本堂には堂本印象の龍、宮本三郎の中国人の生活、西村真琴のアジア女性の絵画が掲げられ、休憩所には栗原信の黄河治水、吉田初三郎の南京城鳥瞰図が掲げられている。当時の代表的な画家が描いたもので、「別冊太陽 画家と戦争」によりこれら絵画が改めて注目されるとともに、松井大将がいかに中国を思っていたかも示しているが、それら絵画はすべて無事だった。例大祭までには参道の復旧も終わっていた。
法要が終わり、住職の伊丹妙浄さんがこんな話をした。新年早々、三十代の男性が参拝に来た。聞くと、靖国神社にお参りに行ったところ、かつての軍人から興亜観音のことを聞き、それではと新幹線に乗って参拝に来たという。
これに限らず、若い人の参拝がよく見られるので楽しみだと妙浄さんは言う。かつて参拝する人は、松井大将の部下や南京攻略戦に参加した将兵など直接関わりのある人がほとんどだったのである。
この話をきっかけに、参拝者が思い思いに話をはじめた。
沼津から来た五十代の男性は、沼津にある日蓮宗の「妙覚寺」に興亜観音と刻まれた石碑が建っており、字体が松井石根大将のものと似ていることから、松井大将を崇拝している檀家の一人が建てたのだろう、という話をした。
同様な石碑は全国に何か所かあると妙浄さんがそれに答え、アジアの平和を願った松井大将の考えに共鳴した人が全国にいたことがわかる。
東京から参列した人は、興亜観音を知ってまだ数年だが、年に三度はお参りするという。
境内には猫が多いですね、という声が上がったが、この山に猫を捨てる人があり、興亜観音ではそれを飼育しているうちに増えてしまったという。松井大将は犬をかわいがったが、いまでは「猫寺」と地元の人は言う。
興亜観音の今年後半の行事は八月十五日と十二月二十三日に行われる慰霊法要で、それぞれ午後一時から行われる。誰でも参拝できる。
