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いま、興亜観音は?
昭和二十一年、東京裁判の被告に指定され、伊豆山を離れるとき、松井大将は伊丹忍礼・妙眞夫妻に堂守りを頼んだ。東京裁判で処刑された松井大将は再び観音像のまえに戻ることはなかったが、伊丹忍礼・妙眞夫妻は松井石根の遺言を守り、堂守りを務めた。
興亜観音を支えるため、建立から二年後の昭和十七年、興亜観音奉賛会が設立される。しかし、敗戦となり、松井大将が刑死し、時代を経ると、奉賛会の活動は弱くなった。それでも伊丹夫妻は、赤貧のなか、三女を育てながら、興亜観音を守ってきた。やがて忍礼が、そして平成の初めに妙眞が亡くなると、三女の妙浄が僧籍に入り、堂守りとなった。現在、興亜観音を守っているのはこの三女である。
毎日、誰かが参拝に登ってくる。熱海だけでなく、全国から来る。住職の妙浄は、毎日、境内を掃ききよめ、読経する。参拝者に茶を接待し、法話もする。パール判事の命日にはインドの紅茶を接待するという。
南京攻略のとき大分の歩兵第四十七連隊は中華門を攻めた。城門の守りは固く、歩兵第四十七連隊では中華門の左の城壁をよじ登って攻めることになった。三明保真大尉指揮する第三中隊が攻め、十二月十二日正午過ぎ、城壁上に日章旗を立てた。城壁上に初めて日章旗を立てたのは三明中隊である。息子の正一はやはり士官学校を卒業した軍人で、「弧峰会」の事務局長として興亜観音を支えた。
住職の妙浄はこんな思い出を語っている。
「ある夜、夢を見ました。観音堂の前に三明正一さんが立っているのです。三明さん、と呼ぶと、スーと消えました。あとで、三明さんが亡くなったと聞きました」
参拝には外国からの参拝者もおり、なかには観音像の前で五体投地する参拝者もいる。敵味方の区別なく慰霊している興亜観音に共鳴するからであろう。
「台東区に住む大塚和平さんが若者を連れてよくお参りにいらっしゃいました。お参りすると、必ず観音像に上って顔やら体を拭いてくれました」
「八月十五日には、観音像にお参りしてから靖国神社に行くという人がいますし、靖国神社にはお参りしてきたと言って興亜観音に来る人もいます」
熱海駅から湯河原駅行きのバスに乗り十分、「興亜観音前」で降り、そこから参道を十数分登ると、興亜観音と観音堂がある。誰でも自由にお参りできる。住職は心から歓迎してくれる。
「世界抗日戦争史実維護連合会」の次の出方は?
いま、南京事件は鳴りをひそめている。
中国政府は、河村たかし名古屋市長の発言に抗議したものの、次に打つ手がなく、思案しているところだろう。もう一つは在米中国系アメリカ人による「世界抗日戦争史実維護連合会」の動きだ。こちらは慰安婦像設置に頭が向いて南京事件への余裕はないようだ。しかし、双方ともこのまま収まることはない。
「世界抗日戦争史実維護連合会」が誕生したのは平成六年である。平成九年、アイリス・チャンの「レイプ・オブ・ナンキン」が発売になると、その宣伝と販売に協力し、「レイプ・オブ・ナンキン」はベストセラーとなった。その「レイプ・オブ・ナンキン」の記述に対して事実誤認だとの斉藤邦彦駐米大使発言が出ると、十年四月、アメリカで斉藤大使辞任要求の声があがった。抗議したのは「世界抗日戦争史実維護連合会」で、このとき彼らの存在が日本に知られるようになった。
彼らは日本に来て活動もする。平成十年十二月、日本では郵便袋事件が話題となっていた。郵便袋事件というのは、陥落後の南京で、日本兵が南京市民を郵便袋に入れ、手榴弾を結び、池に放りこんで爆死させたというもので、それが事実かどうか法廷で争われていた。
作り話だと東京地裁で判定されたのに引きつづき、この年の十二月二十三日に高裁でも同様に判定されたのだが、このとき、彼らが日本にやってきて、中華人民共和国の記者たちを煽り、司法記者クラブの会見場を混乱させた。
彼たちは翌年もやってきた。カリフォルニア州下院議員のマイケル・ホンダを使って、東京で「戦争犯罪と戦後補償を考える国際市民フォーラム」を開催させた。
彼らの本拠地はアメリカである。
平成十二年、カリフォルニア州議会で日本糾弾を決議させる。平成十七年に日本の国連安保理常任理事国の反対署名運動を行う。この年の暮れ、クリント・イーストウッドが南京事件の映画を製作するというニュースが流れたが、翌年二月、連合会が流したデマと判明した。平成十八年からはアメリカ下院で慰安婦の対日非難決議を推進し、十九年七月に可決させた。その後、二十二年十月、ニュージャージー州パリセイズパーク市に慰安婦像を設置させ、今年に入ると、ニューヨーク州上院、ニュージャージー州下院、ニューヨーク州下院などで慰安婦非難を決議させ、一方、三月にニュージャージー州バーゲン郡で設置、七月にはカリフォルニア州グレンデール市に慰安婦像を設置させている。慰安婦像はこのほかにも建立されており、六月にカリフォルニア市議会で橋下大阪市長非難を決議させた。
このようにいまは慰安婦に取りくんでいるが、再び南京事件に取りくむ可能性が大きい。慰安婦でわかるように、彼らにとって真実はどうでもいいのである。どのような手段を取るのか、彼らの動きに注意しておかなければならない。
中華民国はいま南京事件をどう捉えているか?
中華民国といえば、南京事件を宣伝した張本人である。国共内戦が起き、中国共産党に敗れて台湾に移ると、南京事件も大陸から台湾に移った。昭和四十七年、日本が中華民国との外交を捨て、中華人民共和国と国交を結ぶとき、中華民国は南京事件を持ちあげて日本を非難した。日本を攻撃するとき、中華民国は南京事件を持ち出してくるのである。いま中華民国は南京事件をどう見なしているのだろう。
中華民国で一番のベストセラー作家は龍應台だという。彼女は、平成七年、処女作である評論集「野火集」を上梓、これが空前のベストセラーとなった。その後、大学教授や役人を歴任、平成二十一年に発売した歴史ノンフクション「台湾海峡一九四九」は四十万部を越え、処女作をしのぐベストセラーとなった。現在は文部大臣の職に就いている。台湾を代表する作家であり、知識人と言えよう。龍應台の父親は、湖南省に生まれ、日本軍が南京を攻めるとき、憲兵団の一兵士として雨花台で戦っている。憲兵団は蒋介石が信頼する部隊の一つで、雨花台で防衛に就いた後、命令により南京を後にする。その後、父親は昇進し、蔣介石が台湾に逃れるとき憲兵隊中隊長まで進む。父親も台湾に逃れ、そこで龍應台は生まれた。いわゆる外省人である。
「台湾海峡一九四九」のなかで龍應台は、そういった父母の生涯を描くとともに、日本統治下で日本兵士を目指す台湾人、彼たちが監視する国民党の捕虜などを描いた。舞台は南京から長春やニューギニアまでに及び、戦争に翻弄される人たちが描かれ、それが人気を得ている理由のようだ。そういったなかで南京事件が触れられている。
国共内戦では、長春で激しい戦いが行われたが、その包囲戦に触れたあと、龍應台はこう記述する。
「聞いてほしい。どうしてもわからないことがあるのだ。これほど大規模な戦争暴力でありながら、どうして長春包囲戦は南京大虐殺のように脚光を浴びないのか? どうして数多くの学術発表がされたり、口述記録が広く残されたり、年二一回は報道キャンペーンがあったり、大小さまざまな記念碑が建ったり、広大で立派な記念館が完成したり、各方面の政治リーダーたちが何かにつけて献花していたり、小学生が整列して頭を下げたり、フラッシュを浴びるなか市民が黙祷を捧げたり、記念の鐘が毎年鳴り響いたりしないのか?」南京事件を疑いのない事実と見なしている。
南京事件同様に中華民国が宣伝したのは八百烈士だ。昭和五十一年にも八百壮士を描いた映画が中華民国で大当たりとなったことは鈴木明が「新『南京大虐殺』のまぼろし」で紹介しているが、龍應台も勇ましい彼たちについて記述している。これらによって、中華民国の戦時宣伝はいまも続いていることがわかる。文部大臣がこのように記述し、それが空前のベストセラーとなっているのだから、南京事件は国民が共有しているのだろう。
ところで、南京虐殺が中華民国の戦時宣伝なら、三光作戦は中華人民共和国の戦時宣伝である。中華民国では、中華人民共和国の宣伝である三光作戦を口にする人などいなかったのだが、昭和五十年代半ばに中華人民共和国が南京事件を言うようになると、そのお返しのように、三光作戦を言うようになった。
龍應台は、参謀総長の梅津美治郎大将についての部分で、こう記述する。
「権力を盾に『梅津―何応欽協定』の調印を何応欽に強要し、華北を勢力下に置いたのが彼である。そして『煁滅作戦(三光作戦)』を発動し、中国の、村々を焼き尽くし、殺し尽くし、奪い尽くした――それが彼である」
中華人民共和国をまねしたからなのか、中華人民共和国の言っている三光作戦とは違う。中華人民共和国は、昭和十六年ころの華北の日本軍の作戦を三光作戦と言っており、そのとき北支方面軍司令官は岡村寧次大将である。梅津美治郎大将が華北の司令官をしていたのは昭和十三年から十四年にかけてのことだ。岡村大将がそんな作戦を発動したわけでないから、岡村であろうが、梅津であろうが、どうでもいいのだが、中華民国の文部大臣までが三光作戦を口にするようになったのは、日本が戦時宣伝に対し毅然と反論していないからであろう。
売れている南京本
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これまで南京事件はなかったと言うと、中国は直ちに文句をつけ、交流行事などをキャンセルした。すると日本人は、たちまち発言を撤回し、南京事件はあったことになる。
昨年二月、河村たかし名古屋市長は、南京事件があったと言うのなら議論をしましょうと言った。すかさず中国は抗議するとともに、さまざまな行事を取り消した。ここまではこれまでと同じだ。しかし、河村市長は発言を撤回しない。
河村市長がボールを投げ、中国は投げ返さなければならないが、投げ返せない。いざ論争というと、中国はまったく反論できないのだ。確かに日中共同歴史研究では中国の学者が南京事件を主張している。主張はしているが、一方的に主張しているだけだ。同じ研究の日本側学者も事件を認めているが、彼らは外務省の主張に従った意見を出すと見なされたから選ばれたのだろう。
キャンセルするものがなくなると、中国はなにも言わなくなった。
「信念を曲げたら、政治生命は終わりだ」と河村市長は述べたが、その姿勢が歴史事実を明らかにしたのである。
一部の学者とマスコミを除けば、事件が架空であることは日本で定着している。それを裏書きするように南京本が売れている。
昨年秋、川野元雄『南京「大虐殺」被害証言の検証』(1200円)が展転社から発売になった。
「中国の旅」を朝日新聞に連載した本多勝一は、昭和五十九年から「南京への道」を「朝日ジャーナル」に発表した。「中国の旅」が南京市民からの聞き書きだとすれば、こちらは杭州や無錫など南京へ向かう途中の市民からの聞き書きである。
これら証言に対して、川野元雄が一つひとつ批判を加えたのがこの本で、その結果、川野元雄は、
「本多勝一氏が中国の現地で集めた南京大虐殺の代表的な証言集において、『中国当局お墨付き』の二十九証言の中で、日本軍による住民虐殺を矛盾なく裏付けるものは一つもなかったのである」
と述べ、
「日本軍による南京虐殺は立証できていないことを示している」
と結論づけている。
「南京への道」が素性の知れない人の証言の寄せ集めである、とはっきりさせたことは話題を呼び、読みやすいということもあり、今年三月、第二刷が出た。
一方、小学館文庫から発売になっている阿羅健一『「南京事件」日本人48人の証言』も四月に第五刷が出た。
こちらは、陥落とともに南京に入った日本の報道人、外交官、軍の高官などの証言を集めたのもので、誰もが事件を否定している。昭和六十二年に図書出版社から『聞き書 南京事件』として発売され、その後、出版社が解散したため絶版になっていたが、平成十四年に題名を『「南京事件」日本人48人の証言』と変えて小学館文庫から発売となった。
『聞き書 南京事件』は二刷まで行き、小学館文庫でも五刷を数えている。
実証がなにより大切で、それが南京事件の実態を明らかにしており、売れる要素にもなっている。
