コンテンツへスキップ

南京事件とつながっていた朝鮮の爆弾テロ実行犯

 日米開戦前に大使として訪米する野村吉三郎の義眼、降伏調印式の臨む重光葵の義足、これらは昭和史に欠かせない写真ですが、その義眼や義足は尹奉吉の爆弾によってもたらされたものです。昭和七年四月二十九日、上海郊外の虹口公園で天長節の祝典が行われていたとき、投げつけられた爆弾により白川義則大将たちは死亡し、野村吉三郎と重光葵は負傷しました。犯人は尹奉吉、爆弾を準備して尹奉吉に爆破を命じたのは金九で、彼たちは日本の指導者を暗殺しようし、事件はその一環でした。

 尹奉吉は逮捕されましたが、金九は上海のフランス租界で暗殺成功を聞くと、部下三人とともに宣教師フィッチの家に逃れました。フィッチの家に匿われた金九は、そこで犯行声明を作成し、フィッチ夫人に訳してもらい、通信社に送ります。フランス租界は日本の警察も手が出せません。金九がフランス租界に逃れたと考えた日本は懸賞金をかけ、一方蒋介石政権は金九を飛行機を出して助けようとします。やがて金九はフィッチの運転する車でフィッチ夫人と夫婦を装い、フランス租界から中国へ逃れました。

 彼らを匿ったフィッチは、日本軍の南京入城にさいして大虐殺が行われたと宣伝し、上海で日本の残虐性を宣伝するだけでなくアメリカへ渡っても宣伝する人物です。南京事件を宣伝したアメリカ宣教師は中国とだけでなく朝鮮の反日勢力ともつながっていたのです。

 尹奉吉が金沢で処刑されたことから尹奉吉の追悼記念館を金沢に開設する企画が進められてきました。反対の声があがり、とりあえず開設は延期されましたが、ふたたび開設の声があがる恐れがあります。南京事件という虚構の歴史を正すことからも、追悼記念館の開設は阻止しなければならないことです。