南京虐殺と聞いて浮かぶ中国人といえば、李秀英、夏淑琴、朱成山ではなかろうか。前の2
人は被害者だと言って日本の裁判所で訴訟を起こした女性である。3人目の朱成山は南京虐殺祈念館の館長だ。南京虐殺については門外漢だったが、平成4年に党から虐殺祈念館へ派遣され、やがて館長となり、平成27年末まで24年間勤め、南京虐殺というと名前の挙がってきた人物である。
朱成山はこれまで13回来日し、講演を繰り返し、館長を退いて一年、今年もやってきて各地で講演をした。最後に12月15日に東京で講演会を行い南京虐殺について語ったが、日本は断乎として否定しなければならないと思わせるものだった。
朱成山によれば、南京虐殺を主張する根拠は南京軍事法廷と東京裁判の判決だという。南京軍事法廷は三十四万人という判決を下し、東京裁判は20万以上という判決だったがそこに加えられなかった10万人があるので犠牲者は30万人以上になる。これらから、慎重に言っても30万人の虐殺があったのが南京虐殺である。これら判決は、昭和24年に中華人民共和国が誕生する前、すでに下されていた。こう言う。
中華人民共和国は、昭和50年代に入ってから南京虐殺を言い出し、昭和60年に祈念館を造った。南京攻略戦から40年後である。ということは、そのころ何か証拠が見つかったから言い出したと普通なら考えるが、そうではなく戦争裁判を受け継いでいるだけなのである。
講演の多くは資料収集について割かれた。たとえば、アメリカのイエール大学に資料があることを発見した、マギー牧師の息子の家に行ってフィルムを見つけた、ドイツのラーベの娘の家で日記を見つけた、南京では被害者探しをして犠牲者として認められた千人余から証言を取った、という話である。
言うまでもないことだが、当時南京にいた欧米人は中華民国と何らかの関わりがあった人で、残されているものは意図的なものがほとんど、また半世紀以上も経ってからの証言に価値がないのは言うまでもない。
東京の講演のまえ名古屋で講演が行われたが、20万人の南京でなぜ30万人の殺害が起きたのかという質問が会場から上がった。気になったのだろう、東京の講演の最後で朱成山はそれについて触れた。朱成山の説明はこうだ。
南京の人口は100万人で、そのうち半分が南京から逃げ、半分の50万人が残った。このほか上海などから何十万という人が逃れてきて、さらに南京には11万の中国軍がいた。南京には多数の人がいたのであり、20万というのは城内の難民区にいた人の数である。
こういう説明で、30万人を殺してもまだまだ南京には人がいたと朱成山は言うのである。これは言うまでもなく南京虐殺を主張する日本人が使ってきた元の人口を増やすという手法で、驚くことではないが、朱成山もここに逃げこまなければ他に道はないのである。事実はこうだ。
南京の人口は100万人で、そのうちの85万人が城内と、城外でも城壁のそばに住んでいた。この広さは南京市全体の一割強である。残る15万人が郊外に住んでいた。郊外は南京市面積の9割弱を占める。つまり、市民のほとんどは南京城という中心に住んでいて、15万人が点々と住んでいたということになる。
南京城にいた85万人のうち65万人ほどは4か月の間に南京を去り、20万ほどが残った。このような状況を見て南京警察庁長官は南京にいる数を20万人といったのである。郊外にいた15万人は、そこから避難した人もいたし、とどまった人もいただろう。
朱成山は南京に何十万人もが避難してきたと言うが、そのような記録はなく、まったくの作りごとである。南京が戦場になると知っていたから市民は逃げたので、そういう南京にわざわざ逃げてくる中国人はいない。
また中国軍は10万弱だったが、12日夜に撤退命令が出され、それにより大きく4つに分かれる。脱出に成功した一団、城外で日本軍と交戦した一団、城外で捕虜となった一団、難民区に紛れこんだ一団である。中国軍の存在によって南京の数が10万も増えるわけでない。
朱成山は自分の説明を信じているのだろうか。24年も調査研究をしてきてわからないはずはない。事実を承知でこのような詭弁を弄しているのだろう。
南京にいた中国人が20万人前後であることは変わらず、名古屋の講演会場で上がった疑問は当然なのである。朱成山が強調する30万人は簡単に崩壊したのである。