今年の一月二十八日は向井敏明、野田毅両少尉が処刑されて六十六年目になる。
ふたりの将校は、歩兵第九連隊の将校として昭和十二年十二月の南京攻略戦に参加し、その途中、「毎日新聞」で、どちらが早く敵兵百人を斬るか競争をしていると報道された。
中華民国は、戦時宣伝として日本軍の残虐行為を取りあげていたが、その記事を目にすると、敵兵という部分を市民に変え、市民殺害の競争をしていると宣伝した。
そんなことは戦争中ならよくあることだが、単なる戦時宣伝にとどまらなかった。日本が敗れると、ふたりを南京まで連行、南京大虐殺の下手人として死刑の判決を下し、昭和二十三年一月二十八日、南京城外の雨花台で銃殺刑にしたのである。
このことは、戦後の混乱が続く時期でのことであり、敗戦によるひとつの悲劇として歴史に埋もれてしまう運命にあった。しかし、昭和四十六年、「朝日新聞」が連載した「中国の旅」(本多勝一執筆)に取りあげられたことで、注目されることになった。なかでも鈴木明は、百人斬り競争に疑問を呈し、ルポルタージュという手法で真相を追いもとめ、『「南京大虐殺」のまぼろし』の題名でその顛末を明らかにした。
それによれば、百人斬り競争は話だけのことで、それを毎日新聞の記者が戦意高揚の記事にし、そのような記事が内地で話題となっていることをふたりの将校は知らなかった。そのようなことから、戦後、南京に連行されるとき、すぐにでも戻れると考え、裁判になると、毎日新聞の記者に証言してもらえれば無実が簡単に判明すると考えた。ところが毎日新聞の記者は創作記事だと証言せず、そのため、創作記事だけでふたりの将校は処刑されてしまう。
『「南京大虐殺」のまぼろし』は大ベストセラーとなった。戦後、ベストセラーとなった本は何冊もあるが、戦争裁判の実態と新聞記事のデタラメさを明らかにしたという点で、これほど衝撃を与えた本はない。
あまりの衝撃の大きさにそれで終わることはなかった。
ふたりの将校は、大隊副官と歩兵砲小隊長という任務に就いており、部隊の後方にいるため、敵兵に会うことはめったにないことが改めて明らかにされた。
日本刀は数人斬れば使い物にならないことも専門家によって証明された。
すると本多勝一は、ふたりの将校は敵兵を斬ったのではなく、捕虜を斬った、と言い換えだした。
戦意高揚の記事を書いた毎日新聞の記者は、戦後になると赤旗を振り、退職後には一家をあげて北京に渡り、最期まで中華人民共和国に面倒を見てもらったことが明らかになった。
平成十五年、ふたりの将校の遺族が毎日新聞や本多勝一などを相手取って名誉棄損の訴訟を起こし、毎日新聞のカメラマンが証人とし出廷し、改めて百人斬りはありえないことを明らかにした。
しかし法廷は遺族の訴えを認めず、法廷の中立性が問われるということも起きた。
訴訟をきっかけにふたりの将校に関する本が何冊も発売された。
とりわけ注目されたのは、遺族が自分たちの気持ちを綴った『汚名―B級戦犯 刑死した父よ、兄よ』である。向井敏明少尉の息女向井千恵子と恵美子クーパー、野田毅少尉の令妹野田マサの三人がそれぞれ父や兄の思い出を綴ったもので、平成二十年にワック出版から発売されたが、涙なくして読めない慟哭の手記である。
向井敏明、野田毅両少尉の御霊は、言うまでもなく昭和殉難者として靖国神社に祀られている。また、十年ほど前から永代神楽祭も行われており、毎年命日の一月二十八日には関係者が昇殿参拝して御霊を慰めている。今年も午後四時から昇殿参拝が行われる。
ふたりの将校に寄せる国民の気持ちはいつまでたっても消えることがない。