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東京・国立市で「南京」の講演会開催!

 5月26日、東京都国立市・国立商協ビルさくらホール溝口郁夫氏を講師にお招きして講演会 南京大虐殺の「ニセ写真」を徹底的に暴く>(主催:新しい歴史教科書をつくる会 東京三多摩支部)が開催されました。


 河村たかし名古屋市長発言に端を発し、南京虐殺問題を「すでに政治的に決着した」「歴史的事実として固定化しよう」としてきた中国政府は、科学的検証の自信がないまま、政府報道官はただ説得力のない“表層的抗議”を日本政府にぶつけるだけであった。

 つくる会東京三多摩支部は、
河村発言を契機に捏造写真を徹底的に暴く講演会を企画した。その要点を下記に紹介する。


 当時(昭和12年12月)、日本軍は国民党(蒋介石政権)政府軍へ12月9日降伏勧告(10日期限)、抗戦を決意した中国軍に対し攻略を開始。当時の南京市人口は20万人(公式記録有り)、それも白人で組織する「安全地帯国際委員会」が管理する安全地帯に集中していた。

 つまり安全地帯の外側はほぼ無人地帯であった。

 中国軍の指揮官・唐生智が自軍を置き去りにして逃亡(12日午後8時)した話は余りに有名だが、指揮官不在の中国軍は大混乱となり、混乱の最中、城門内外で多くの中国軍兵士たちが戦闘で亡くなった。

12月13日 払暁、南京陥落。日本軍の城内進出が始まった。

12月14~16日 城内および安全地帯の掃討を実施。12月17日が入城式。
12月18日には松井大将らが中心となり戦闘で亡くなった日本軍、中国軍兵士を弔う慰霊祭を荘重に挙行。

 この模様はフィルムに記録として保存されている。
12月24日には兵民分離により、民間人には安居証が発行された。

 入城式も慰霊祭も兵民分離も、
オープンなかたちで粛々堂々と行われた。

 翌年1月1日には、自治委員会が発足、日本軍はこれを支援し、
餓死者を出すこともなく市民生活は安定した。

 そして2月上旬には戦闘で亡くなった死体の埋葬を本格的に開始、
3月末頃にはほぼ終了した。

 その処理死体数が水増しを含めて4万余といわれている。

 この整然と行われた一連の戦争処理が、いつの間にか日本軍の大虐殺として喧伝されたのである。原因は

①国民党・宣伝処による巧妙かつ伝統的な宣伝工作
②欧米人記者による検証なき捏造情報の報道、拡散→一挙に世界中に喧伝された。
③ベイツ(南京大学教授、宣教師)による虚偽の「ベイツメモ」、これが記者に手渡され、これ幸いに米国の新聞に掲載され各国にも伝わった。ベイツは宣伝処顧問、つまり国民党政府から報酬を貰う身分だった。政府に忠勤を励むのは道理である。

 南京虐殺とは、ベイツメモが事の発端となり、虚偽情報が次第に拡散、拡大され、いつの間にか4万、10万、30万虐殺・・となり、政治的に虚偽数字が固定化された。

 1939年には『南京安全地帯の記録』が発行されたが、日本「
南京」学会の調査分析によって、記録の殆どが“伝聞”情報で固められ、第一級史料とはなり得ないことも検証された。

 これが伝聞記録暴露の第一級史料となったのは、
パラドクスともいえる結果となった。

 つまり南京虐殺がなかったことは既に“
学問的には決着がついている”のである。

 その事実は日本「南京」
学会発行の図書にあますところなく記録されている。

 今後の課題は悪魔による意図的な虚偽情報の流布(
国際ネットワーク)をどう打ち砕くかにある。

 捏造写真のオンパレードは枚挙に暇がない。代表的な写真の分類は、爆撃、生き埋め、殺傷、死体、レイプ、略奪・・だが、どれも紹介するのがバカらしいほど幼稚である。

 捏造天才国家・中国ならではの写真ではあるが、それを中国同様、
平気で使用する欧米諸国の文明度も、中国並ということになる。

 このように、
南京事件の流れは極めて明快で坦々としたものであったが、その狭間に、巧妙にも“虐殺”という虚偽情報の弾丸を打ち込まれ、未だ抜き取ることができず苦しんでいるのが、日本の悲しい現状である。

 検証は十分以上にできている。

 河村市長には、堂々と日本側の正当な主張を展開いただき、同時に国民の側は全国的に河村市長を支援しなければならない。

 南京事件は、
日本を巡る近代の歴史が総合的に詰め込まれた特殊性を有している。歴史の回復のためにも、ぜひとも南京問題を正確かつ慎重に把握することが求められている

 南京虐殺写真の殆ど総てが捏造と断言してもよい。


 写真は、南京市内の“平和”
な光景が、虐殺がなかったことを静かに証明している。


        

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